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カシミール、パキスタン

2006年1月25日(水) 10時00分(タイ時間)
 ヘリコプターの爆音が、渓谷に響く。そのたびに、崩れた家屋の残骸から、埃が舞い飛ぶ。国連、パキスタン政府、各国の政府やNGO、さまざまな組織や団体の援助物資が、ヘリに積まれては絶え間なく離発着するカシミールの空。ガレキに覆われた大地では、膨大な数の犠牲者が、いまだ掘り起こされることもなく、半ば放置されている。極寒の中、避難民キャンプで暮らす170万を越す人々は、少しずつ体力を奪われている。

10月8日に発生したカシミール大震災から1カ月あまりが過ぎた。パキスタン政府発表では6万人、実際は10万人ともいわれる死者を出した大災害だというのに、世界はもう、この地域のことを忘れてしまっているだろう。しかし現地では、苦しみはこれから本番を迎える。


地震に慣れ、また地震対策もしっかりと整っている日本の感覚なら「1カ月経ったのだから、だいぶ落ち着いただろう」と思うところだ。だが被災地はどこも、地震発生直後とほとんど変わらない状態が、いまだに続いている。


生き残った人々のケアをする以上の体力はパキスタン政府にはなく、無数の町や村で、倒壊した建物が野ざらしになり、その下では犠牲者が埋まったままだ。地滑りで大小多くの道路が不通となり、1カ月後の今でもなお、ヘリ以外の交通が遮断された地域がたくさんある。パキスタン北部を貫く幹線道路、カラコルム・ハイウェイの復旧は早かったが、そこから渓谷沿いに延びる道はことごとく断線した。美しい渓谷に暮らしていた遊牧民も生活の場を失い、何十匹、何百匹という家畜を伴って、カラコルム・ハイウェイを町まで避難してくる。道々、物乞いをしながら、何日も何週間もかけて、徒歩で下ってくるのだ。


今回の災害で特徴的と言われているのが、学校の被害の大きさである。「パキスタン建国以来、最大規模」(地元紙)の巨大地震であったばかりでなく、建物の脆弱さ、発生したのが始業時間だったことなどが影響し、児童・教師全滅した学校は数多い。北部辺境州では2000を越す校舎が倒壊したし、被害の特に激しいバラコット近郊では、女子高が倒壊し200人を越す生徒が圧死するなど、校舎の下敷きとなって死んだ子供は1万7000人に上るという。授業を再開した学校もあるが「建物の中にいるのが怖い」と話す生徒も多い。これら学校や役所、商店など、生活の基盤ごと完全にガレキと化した地域の再建は、何年もかかりそうだ。


被災地の大部分は、インドと領有権を激しく争うカシミール地方であり、これを機とした両国の融和も期待された。一時期は「避難民に限り、5カ所の国境を開放する」という案が出されたが、直後にインド首都デリーで、そのカシミールに拠点を置くイスラム過激派による爆弾テロが発生。結局、国境は1カ所だけが暫定的に開かれた。インド政府もパキスタン政府も、和解のポーズはあくまで政治的ショーの枠を出ることはなかった。


特にパキスタン政府の対応の遅れには、人々の不満が根強い。地震発生後3〜4日後まで、なにひとつ対応することができず、その間に多くの人命が失われた。この地域に大量に駐屯していた軍隊、行政府や病院なども軒並み大被害を受け、当初は連絡すらつかなかったことが初動の遅れを招いたのだが、そんな中でも機能していたのが実のところ、草の根的に張り巡らされたイスラム原理主義者のネットワークであった。


国会にも議席を持ち、一方でアルカイダとの繋がりも指摘されている原理主義政党「ジャマ・イスラミーヤ(JI)」のマンセヘラー地区避難民キャンプでは、被災直後から平均して1日190台のトラックを動員し、緊急支援物資の配布、怪我人の手当て、難民の収容などに尽力している。






「現場の軍隊はよくやってくれている。各国の救助隊にも感謝したい。しかしパキスタン政府は無力だった。原理主義といえど、ジャマ・イスラミーヤがいなければ私たちは死んでいた」。



 大家族のほとんどを失い、息子とふたり生き残った男性はそう話す。


 しかし一方で、「政府がなにもできないのは当初からわかっていたこと。世界各地から来てくれたさまざまな団体のホスト役・調整係としては、機能していたほうではないか」という声もある。いずれにせよ、自国政府を頼りにできない状況下、被災地は氷点下の厳しい冬を迎える。こうしている今も、難民たちは続々と住む当てもなく山を降りてきており、またヘリで緊急に運送されてくる怪我人たちも絶えることがない。世界が忘れた中、カシミールの苦闘が始まる。
《newsclip》