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Bamiyan , Afghanistan

2006年7月15日(土) 13時25分(タイ時間)

9.11。

 ニューヨークに2機の飛行機が突入したその瞬間から、アフガニスタンに生きる人々の運命は大きく変わった。

 竹槍で空襲に対抗しようとするかつての日本人のように、彼らは旧式のカラシニコフでもって、降り注ぐトマホークの雨に立ち向かうこととなった。それは「アメリカの侵略に抵抗する」だとか「ビンラディンをかくまう」といった意味ではなかったように思う。彼らは、自分たちの生きる豊かな「谷」を、ただただ守るために戦ったのではないだろうか。それは旧ソ連がこの土地に侵入してきたときと、全く同じ理由であろう。

 首都カブールから、未舗装の悪路を車で10時間。ユネスコの世界遺産にも指定された、バーミヤン遺跡がここにある。極端なイスラム原理主義を掲げた旧タリバン政権によって大仏は爆破されてしまったが、それでもバーミヤン谷には無数の仏跡が残っていた。

 まだ至るところに地雷が埋まったままという村を歩いて、遺構が刻まれた岩山に向かう。観光客は、僕ひとりだった。

 残骸と化したトラックや、破壊されたモスクのあちこちから、子供たちが顔を出す。はにかみながら近寄ってきては、小声でハローと言う。僕の歩く後ろを、はしゃぎながらついてくる。「あっちは地雷があるからあぶないよ」「あそこは眺めがいいんだ」子供たちに導かれながら、バーミヤン大仏を見上げる高台に出た。

 爆破された直後のままに、残骸が転がり、世界遺産は放置されていた。かつては僧たちの住居だったという、岩山に掘られた無数の洞窟は、いまでは難民たちの住みかとなっていた。観光地の華々しさなどなにもなく、ただ冷たい風が吹き抜けるだけだった。

 遺跡をバックに、子供たちの写真を撮った。いずれ送るから、と住所をたずねると、口ごもる。英語の達者な子が、代弁した。

  「あの子は国連の難民キャンプ、この子はNGOの仮設テント、僕は壊れた車の中、みんな住所ない」

 ここはそういう国なのだ。気にする様子もなく歩き始めた子供たちについていく。

 遺跡の中ほどまで来ると、バーミヤンの谷がよく見晴らせた。高い空はどこまでも青く、村を縦横に流れる水路と、それに育まれた小麦畑の緑があざやかだ。草木の生えない乾いた岩山、街道を飾るポプラ並木、頬をなでる涼やかで清潔な山の風。昔ながらの農作業に精を出す村の人々。おとぎ話の世界を眺めているような感覚がする。こんなささやかな谷の集合体が、アフガニスタンという国なのである。

 谷が違えば言葉や文化も違うことすらある多民族地域では、住民のアイデンティティは「アフガニスタン人」よりも「どこそこの村の者」「どこそこの谷の者」に比重が置かれる。アフガンがこれまでまともに統一されたことがない原因がこれであるし、またこの地に侵入した軍隊が、いずれも苦戦を強いられている理由でもある。

 アメリカもまだ、アフガン各地で戦闘を繰り広げている。村の男たちは、自分たちの美しい谷を守るためには徹底的に立ち向かう。彼らを屈服させるのは、最先端技術だけでは難しい。
《newsclip》