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インド バラナシ

2006年7月23日(日) 16時03分(タイ時間)

幾度ガンガーを訪れても、その圧倒的な包容力には息を呑む思いがする。沐浴場に群れる老若男女をはじめとして、人や動物の死骸、また供物の花や菓子果物からゴミにいたるまでありとあらゆるものを包みこみ、滔々と流れている。歯磨きをしている者、洗濯をしている者がいれば、どこから連れてきたのか、何十頭もの水牛に涼をとらせている者がいる。みやげもの屋がボートに品物を積み、ガンガーを見学している観光客のボートにうるさくつきまとっている。サドゥーとよばれる放浪出家者たちが集まって談笑している。ミルクティーを出すチャイ屋がある。パンとよばれる噛みタバコを売る小屋がある。沐浴場近くで瞑想をしたりヨガをしていたりする者もある。若者たちがクリケットを楽しんでいたりもする。猿もいれば、ヤギの親子も見かけられる。花売りの少女や客引きが、また乞食が外国人にまとわりついている。どこかの国の一行がテレビか映画の撮影をしている…。




 バラナシのガンガーを目の当たりにすれば、私たちがもつような聖なる河へのイメージは吹き飛んでしまうかもしれない。それでも生者死者を問わずすべての生命を受け入れつつ、静かにただ黙々と流れていく河は、やはり何かを語りかけてくるのだろう。バラナシに長期滞在する旅行者は多く、そのなかには住みついてしまう者も少なくない。サドゥーと共に行動してあてもなく果てもない旅路につく者もいる。妊娠中であるにもかかわらず私がインド行きを決めたのは、ひとえに胎内のまだ形も定かでない生命にこの世界の生の姿を感じさせたかったからだ。聖俗あわせ呑むというだけではまだ足りないくらいのガンガーの混沌とした情景は、まさにこの世界に渦巻く生命の生々しさを映し出して見せてくれたように思う。

 そのバラナシから北東へ10キロほど行ったところにサルナートがある。ここは仏陀が初めて説法を行ったところとされ、生誕地ルンビニ、悟りを開いたブッダガヤ、入滅の地クシナガルと並ぶ仏教四大聖地のひとつである。ここにはスリランカ、ブータン、チベット、中国、韓国、タイ、日本などの国がそれぞれの様式で建てた寺院があり、巡礼者や旅行者を受け入れつつ様々な活動をしている。日本寺は医療・教育施設の建設計画をあたためているというし、タイ寺ではヴィパッサナ瞑想の為の道場を提供しており、またチベット寺には折に触れてダライ・ラマが訪れ、講演会が開かれているようだ。



 私が今回サルナートを訪ねたのは2年ぶりで、ちょうどホーリーの時期だった。ホーリーはいわゆる無礼講の水かけ祭りだが、インドで使用するのは色水だ。普段はいたって穏やかなサルナートも、この日ばかりは村中の人間が入り乱れて騒ぐ。熱に浮かされたようなホーリーが終わると、今度は40度を越す猛暑の日々が始まり、サルナートは再びひっそりと静まり返るが、そんななかそれぞれの寺からは勤行の声や音が響いてくる。

 バラナシとうってかわってサルナートに多くの観光客はない。近頃は宗教に対して懐疑的な人間が少なくないと思われるが、こういった人達の多くは不信感が強いためにそうなのであり、それはつまり想像力が欠けているということなのだろう。宗教はいわば管理するような立場にあって人と神仏との境界線に立っているに過ぎない。宗教が何かを与えてくれるかのような誤解や錯覚があるが、実際には人は自分のなかから生み出し得るものしか生まないのである。日本寺の亡き和尚が、生前何度も繰り返していた言葉がある。「おのれが信じられるおのれになるんだ」今だに忘れられない一言である。
《newsclip》