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クメールの光と影

2006年9月2日(土) 15時29分(タイ時間)

 今や世界的に著名な観光地となったアンコール遺跡群。訪れた人は、数々の寺院の巨大さに驚き、余白を恐れるがごとき彫刻の群れにあきれる。そして「なぜこんな巨大な建物が?」「なぜこんなにも数多く?」と疑問に思う。さらにこれら建築群が、人知れず密林の中で何百年も眠っていたと知り、想像力をかきたてられる。

 アンコール王朝の歴史は未知の部分が多い。それは資料として残っている物が、中国の資料を除けば石の寺院に刻まれた碑文ぐらいしかなく、その碑文にも歴史的記述より、寺院運営のための諸条件や寄進の内容を記した物が多いためだ。現在アンコール地方に遺跡として残っている多数の寺院の当時の呼び名すらほとんどわかっていない。それでも19世紀に遺跡が再発見されて後、フランス極東学院の努力により、おおまかな歴史、王達の名前はわかってきた。

 紀元後のフーナン(扶南)に始まるカンボジアの歴史は、7世紀のチェンラ(真臘)を経て陸のチェンラと水のチェンラに分裂する。その混乱の中から出て来たのが、9世紀はじめアンコール王朝を起こしたジャヤヴァルマン2世だ。そして12世紀には、アンコール・ワットを建立したスーリヤヴァルマン2世、さらに13世紀にかけては、一度ベトナムのチャンパによって陥落させられた都を復興し、バイヨンをはじめ数々の巨大寺院を築いたジャヤヴァルマン7世など偉大な王がでてくる。しかし、およそ600年続いた王朝の歴史は、15世紀、タイのアユタヤによって終止符を打たれ、ジャングルに打ち捨てられることになる。



 今日、我々が目にする巨大寺院は、これらクメールの王達によって建てられた。王朝の創始者ジャヤヴァルマン2世は、分裂していた国家を統一し、ジャワの干渉を受けていた国家の独立を内外に示すため、アンコール地域の北東にあるクレーン山上で、バラモン僧によりリンガの形をとったシヴァ神と一体化する儀式を行い「聖なる王」となった。この思想が歴代の王に受け継がれ、王が即位して後まず成すべき事の一つとして、王が信仰する神と王自身を祀るため、山と見立てた寺院を建てることが重要視された。

 もう一つ巨大寺院建立のための大切な要素がある。それは王位が世襲制ではなく、実力主義の社会だったことだ。王の部下や地方の豪族などが新たな王位に就く時もあり、その場合、前王よりもより巨大な寺院を建て、自分の力と正当性を人々に示さなければならない。自負心のある王が即位した時も同様である。

 王位継承がスムーズに行われ、なおかつ偉大な王が出現すれば国力は上がり、うまくいかなければ内乱となり衰退する。王朝末期には寺院すら造ることが出来ない脆弱な王が続き、アユタヤに滅ぼされてしまった。都陥落の後、クメールは現在のプノンペン近郊に都を移したが、その後も王位継承の度に、争いが起こり挙句の果てに隣国の軍を引っ張り込むことが続いた。そのため肥沃なメコンデルタはベトナムに取られ、アンコール地方も一時タイに割譲されていた。

 現在のカンボジアにも、こういった歴史的背景から複雑な感情がうずまいている。ベトナム寄りのフン・セン首相は国民に好かれていないし、昔は大国だったプライドから、経済的優位にたつタイにやすやすと尻尾を振るわけにはいかない。昨年の「アンコール・ワットはタイのもの」とタイ人女優が言ったという噂がタイ大使館焼き討ちに発展したのも、ここに原因の一つがある。



 今またシアヌーク国王の退位によって、カンボジアの新たな国王が選ばれた。首相が新国王を利用して、未だ安定しているとは言い難い国の運営をどうするのか見ものである。
《newsclip》