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タイの歴史

2007年6月29日(金) 14時36分(タイ時間)
スコータイ王朝以前(—1238年)


 タイ有史以前の文明である遺跡が、東北部ウドンタニ県ノーンハーン郡にある。世界遺産としてユネスコにも登録されている「バンチェン遺跡」(日本ではバンチアンと紹介されるが、発音的にはチェンマイのチェンと同じ)だ。タイの研究者は、同遺跡を4000—7500年前のものと発表。当初は世界最古の農耕文明と騒がれたが、その後の研究で2000—3000年前であることが分かってきた。タイ観光庁(TAT)の資料には、現在でも4000—7500年前と紹介されている。


 スコータイが建国される前のタイの地には、モン族によるいくつもの集落が点在し、その集落がいくつか集まってコミュニティを形成していたといわれる。「ドヴァーラーヴァディー王国が栄えた」と紹介するガイドブックが多いが、「ドヴァーラーヴァディー」は王国ではなく、そのようなコミュニティが存在していた時代を指す。ドヴァーラーヴァディー時代は6世紀ごろから11世紀ごろまでで、800—900年ごろからタイに勢力を伸ばしてきたクメール王国や、移住してきたタイ人がとってかわることになる。


現在のタイ北部一帯には、「ハリプンチャイ王国」があったとされる。ドヴァーラーヴァディー時代と同族のモン族が1000年代に建国、1200年代後半に「ラーンナー王国」(1296—1894年)によって滅ぼされた。ラーンナー王国を築いたのはタイ系族のメンラーイ王で、1262年に「チェンセン王国」(現在のチェンライ県チェンセン郡)を建てている。ラーンナー王国は現ラタナーコーシン王朝が開かれた後まで、約600年続いた。


 現在のタイ南部は、マレー半島の海上貿易国家だった「シュリヴィジャヤ王国」(700年ごろ—1400年ごろ)の一部でもあった。タイ語でシーウィチャイと呼ばれ、そのころの有名な遺跡が南部スラタニ県チャイヤー郡に残っている。


スコータイ王朝(1238—1438年)

タイでは800—900年ごろからクメール王国が勢力を振るっていたが、それが弱まり始めた1200年代、タイ族が初めて自らの王国をスコータイの地に成立させた。最も栄えたのが第3代ラムカムヘン王の治世で、同王が考案したとされるタイ文字で刻まれた「ラムカムヘンの石碑」を残している。在京タイ王国大使館のウェブサイトには、ラムカムヘン王のころには、北はラオス、南はシンガポール辺りまで領土が拡大したとある。


 仏教美術的には、スリランカ様式が多く取り入れられ、チェーディー(仏塔)などは鐘型をした「ランカー様式」が多く建てられると共に、先端がハスのつぼみの形をした「スコ?タイ様式」も生み出された。仏像では右手のひらを胸の辺りでかざして歩く、タイの仏像の中でも最も美しいとされる「遊行仏」が、この時代に生まれている。


 ただ、スコータイ王朝の歴代王に関しては、第3代ラムカムヘン王と第6代リタイ王以外は、初代シーイントラティット王を含め、存在が確認されていないともいわれる。また、ラムカムヘン石碑に関しても、現王朝のラマ4世(在位1851—1868年)が、欧米列強にタイは歴史が長い国という印象を与えるため創作したともいわれる。


アユタヤ王朝(1351—1767年)

スコータイ王朝が衰退してきた1300年代中ごろ、ラーマーティボーディー1世(ウートーン王)によって、アユタヤ王朝が開かれた。上座部仏教を国教とし、法令である「三印法典」を編集したことが、仏教史的に注目されるといわれる。仏教美術としては、「国王=神」が前面に押し出されたことでバラモン教の影響が濃くなり、冠をかぶった仏像(アユタヤ市内ワット・ナープラメーン)が造られるなど、装飾が派手になっている。


 西洋と東洋の中間地点という地の利を生かし、日本、中国、インド、アラブ、ヨーロッパの国々との貿易で力を付けていった。約400年、36代続いたが、ビルマからの度重なる攻撃や属国としていた南部のイスラム国家の反乱などが続き、1767年、ビルマに侵略される。


タイでは現代に至っても、当時のビルマの攻撃の激しさを非難し、アユタヤが滅亡したのはビルマの徹底的な攻撃によるものとしている。しかし実際には、アユタヤの町が現在のような廃墟となったのは、現ラタナーコーシンの建国によるものという。バンコクで新しい建物を建てるために、アユタヤに残っている建物を壊してレンガを調達していた。


ビルマの戦いでは、アユタヤ王朝第18代王チャクラパット王の王妃「スリヨータイ」や、第21代王の「ナレースワン王」の活躍が有名で、タイではいずれも人気映画となっている。


トンブリー王朝(1769—1782年)

アユタヤ王国の滅亡後、アユタヤの一将軍だったタクシンが挙兵してビルマ兵を駆逐、現在のバンコクのトンブリー地区に新しい国を築く。しかし、15年後には戦いの繰り返しで精神に異常をきたしたとされ、ラタナーコーシン王朝(チャクリー王朝)の初代王となるチャックリー将軍に捕われて処刑された。


チャクリー王朝(1782-現在)

チャクリー将軍はトンブリーから現在の王宮周辺に遷都、初代王(ラマ1世)となって、国づくりを始める。バンコクの名の由来は「バーンコーク=マコークの木(タマゴノキ)の水村」といわれる。王宮建設地の一帯は、マコークの木が一面になっていたという。また、周辺には中国系住民の集落があり、王宮建設のために現在の中華街(ヤワラート)に移された。


「王様と私」で知られるラマ4世の時代となると、欧米列強がアジアに進出、タイも脅威にさられるようになる。英国などと修好通商条約を結ぶのもこの頃で、前述のようにラマ4世はタイが歴史ある強国であることを内外にアピールする。


タイの近代化に最も力を注ぎ、現在でもプミポン国王(ラマ9世)と並んで敬われているのが、ラマ5世(チュラロンコン大王、在位1868—1910年)。奴隷制を廃止し、行政を整え、郵便を開始し、鉄道を敷くなど、タイの近代化を導いた。


ラマ7世(在位1925—1935年)の時代、ヨーロッパ留学組の将校・官僚が、王室の浪費と世界恐慌を背景に、絶対君主制から立憲君主制への革命を起こす。1932年の「立憲革命」だ。この頃から1960—1970年代まで、王室の権威は著しく低下した。


混乱を避けて退いたラマ7世に代わって国王となったラマ8世(在位1935—1946年)は、旧日本軍の駐留や連合国軍からの攻撃という立場の苦しい第2次世界大戦を戦勝国として勝ち抜いたが、未だ真相は謎とされる「銃の暴発」で急逝。現プミポン国王(在位1946年—)の治世となった。戦後の政治を担った軍事政権は、「民族意識の高揚」のために王室の権威を復権させたが、これが結果的に成功し、国民が自らの意思で国王を崇めるという現在の習慣が根付いた。


タイは現国王の下、何十というクーデターを生き抜き、80年代半ばから10年続いた高度経済成長を経験し、1997年に発生した経済危機を潜り抜け、今またさらなる成長を遂げている。
《newsclip》