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「あれがカイラス山だ」

2008年1月17日(木) 14時46分(タイ時間)
「あれがカイラス山だ」

 阿里で拾ったランクルの中国人が指差した。カイラス独特のしま模様が、周囲をとりまく山々の合間にひときわ目立って見える。「ただの山じゃないか。もっとすごいものかと思ったのに」と阿里でたまたま一緒になった連れの男の子がぼやいた。カイラスはただの山、こう言ったのはこれで三人目だ。


 翌朝、カイラスを囲む山を歩いて一周し、ふもとのタルチェンまで戻ってくるという巡礼の旅に出た。巡礼道に散らばるビニル、空缶、即席麺の袋などに気をとられていたのも最初のうちだけだった。カイラス巡礼は初心者で少なくとも3日かかり、2つの寺が巡礼者を泊めてくれる。5,000メートル級の山々は見渡す限り石と岩で、すぐに足が棒のようになる。雪がちらつき始める季節のため巡礼者も少なく、日没までに最初の寺に到着しなければ、闇の中で凍死しかねない。私は日暮れ間近になって寺を見つけ、床をもらい、寒さに震えながら眠った。


 2日目、巡礼中一番の難所といわれる峠にかかった。次第に空気が薄くなるのが感じられ、一歩一歩が苦痛になってきた。早朝にタルチェンを出発したというチベット人達が、軽快な歩調で次々と私を追い越していく。踏みならされた雪道が氷状になり、足をすくわれそうになる。氷の壁のような坂道の向こうに、頂上を示す色とりどりの旗の、何万という数が風にひしめきあっている様子が見えたとき、私の頭の中には、次を踏み出す一歩と支える軸足の踏ん張りの力のことしかなかった。 峠を越すと、それまで部分的にしか見えなかったカイラスの全体が見渡せた。ここから先はカイラスを眺めながら歩く。酸欠のために思考力が思うように働かないのもあって、特別な感慨などはなかった。ただ異常に興奮している自分を感じていた。


 二つ目の寺に着いたとき、まだ日暮れには間があったので、私はそのままタルチェンへ向かった。のちにタルチェンで再会した連れの男の子が話した。「カイラスを3回周ってみて分かったことがある。それはカイラスが美しいということだ」 




 その価値観が一週間で転倒した彼がそうであるように、美醜善悪優劣是非の価値は、その転変が激しい。カイラスが沈黙のうちに体現している力に向かって、ちょうど巡礼道に散らされているゴミと同じように、多くの感慨や解釈や宗教的感情が投げかけられてきたことだろう。人は見たいものを見るという。私が見たのは、沈黙を続けるカイラスの姿だったが、想像力の制御も開放もいずれにしても、いかにして癒されるかという人間の根源的な欲求の枠から一歩も踏み出していないものであり、思想がある者にしろ、神がある者にしろ、同じだけ充足と不足を感じることには変わりがない、と巡礼後に私は改めて思った。



■カイラス(カンリンポチェ)
チベット西部にある標高6,656メートルの山。チベット密教、ボン教、ジャイナ教、ヒンズー教などの聖地。
《newsclip》