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歓喜の街マンドゥーと隠されし場所オルチャ

2008年1月22日(火) 22時24分(タイ時間)

インドは中国のような歴史書はあまり残していないが、多民族が入り乱れて興亡を繰り返してきた歴史の面白さは、語りつがれている物語を聞くだけでも うかがい知ることが出来る。何よりインド全土に無数に残る寺院や廟や墓、宮殿や要塞が、歴史を雄弁に物語る。しかし、移動手段や宿泊施設、食事の貧しさを 考えると、一部の観光地を除けば、普通の日本人がこれらの見所を気軽に訪れることは不可能だ。今回取り上げるオルチャとマンドゥーも快適とはいえない条件 ばかり満たしているが、廃墟と人々が共存しているような、素通りするには惜しい場所である。

 オルチャは「屈辱よりも死を!」の信念のもと、数々の戦場を戦い抜いたラージプート族の都の一つ。ここでは幸いなことに、他のラージ プート族が負け戦の最後に選んだ集団自殺的な修羅場を見ることはなかった。16世紀に開かれたオルチャは、17世紀になると北のムガル帝国と戦うよりも友 好政策をとることによって繁栄を迎える。皇帝がオルチャを訪れる時には、皇帝の名をつけた特別な宮殿を建てるなど、数々の努力をはらった。しかし、その努 力もむなしく、やがてムガル帝国の侵略をしばしば受けるようになり、18世紀にはマラータやジャート族の攻撃を支えきれず都は放棄されてしまう。  今日のオルチャは、川にはさまれた中州に建つ宮殿群や、町はずれの王室墳墓、そしていくつかのヒンドゥ教寺院を抱える小さな町だ。寺院 には今でも定期的に信者がお参りしている。この信者のための門前町といえよう。しかし、一歩町を離れれば、そこかしこに昔の栄華をしのばせる寺院の廃墟や 崩れかけた霊廟が、木立の中や田園風景の中に散らばっている。
 観光客が少ないわりに交通の便のいいオルチャに比べて、デカン高原の一角、周囲を深い峡谷によって隔てられたマンドゥーは、まさに天然 の要塞である。台地の面積は20平方キロ、周囲にめぐらせた城壁は40キロにもおよぶ。いくつもの宮殿や離宮、大小のモスクに王達の霊廟、そしてあちこち で見かける名もしれぬ小さな廟。「歓喜の街」と呼ばれたマンドゥーは、全盛期には数十万人もの人々がこの台地で暮らし、宮廷に仕える若い女性だけでも優に 1万人は超えていたと伝えられる。
 マンドゥーの歴史は、10世紀のヒンドゥ王国に始まるが、14世紀以降はデリーのイスラム君主の介入、独立、侵略軍との戦い、そして再 び独立と、幾度も興亡をくり返す。16世紀に入ってからは、執拗なムガル帝国軍との戦いについに王は逃亡、帝国の属領となってしまった。後にマラータ族の 支配下になってからは都はほかに移され、やがてマンドゥーは廃墟となってしまう。
 この歴史の流れの中から様々な王が登場する。即位後1年で暗殺された王や、31年間ハーレムの女と歌におぼれ、息子に毒殺された王。あ る王は美女の詩人に入れあげ、彼女を招くため離宮を建てたが、落城時にはさっさと自分だけ逃げてしまった。しかし、全ては過去の物語だ。有名な建造物以外 は、保全の手は加えられていない。小さな廟は家畜の寝床であり、旅の商人のためのキャラバンサライは子供達の遊び場だ。沐浴のためのタンクは女たちの洗濯 場になっている。今は小さな村になってしまったマンドゥーは、これから先も大勢の観光客が訪れることはないだろう。自給自足の村人は、目の前の廃墟に無関 心だ。歴史を秘めた建造物もいずれ土に帰るのだろう。
《newsclip》