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銃撃で負傷の反タクシン派幹部、タイ王妃関係者に言及

2009年5月4日(月) 01時23分(タイ時間)
【タイ】反タクシン元首相派団体「民主主義のための市民同盟(PAD)」の創設者で、4月17日に銃撃され負傷したソンティ・リムトーンクン氏が3日、事件後初めて記者会見を開いた。ソンティ氏は会見で、PADの宿敵であるタクシン派団体「独裁追放民主主義同盟(UDD)」(通称スアデーン=赤シャツ)にすり寄る姿勢をみせたほか、シリキット王妃に近い高位の女性にも言及。同氏の発言で、タイの政治混乱はますます深まる雲行きとなっている。

 ソンティ氏は車でバンコク都内を移動中に銃撃を受け、自身が銃弾の破片で頭に43針縫うけがをしたほか、運転手が重傷を負った。犯人グループは10人以上で、車4台に分乗していたという。使用された銃弾の一部はタイ陸軍のものであることが明らかになっている。

 ソンティ氏は「実行犯は兵士で、犯行現場の監視カメラは5台すべてが故障していた」として、軍の一部の犯行という見方を示した。また、「自分が殺されれば、アピシット首相だって危ない」「野蛮な権力により、PADも赤シャツも脅威にさらされる」と述べた。

 さらに、シリキット王妃が後援する軍人・警官・国境自警団員慰安財団事務局長のタンプーイン(高位女性の称号)・ウィラヤー・チャワクン氏、プラウィット国防相(元陸軍司令官)、アヌポン陸軍司令官の名前を挙げ、「3人が今回の暗殺未遂に関与したとは個人的には信じていないが、万が一そうだとしても、恐れていない」と述べた。静養のため、しばらく米国に滞在することも明らかにした。

 ウィラヤー氏はソンティ氏の発言について、「真実ではないので気にしていない」とコメントした。

 ソンティ氏は記者会見前にタイの新聞大手ネーション・グループのインタビューに応じ、「赤シャツを嫌っているわけではない。彼らは使われていることに気づいていない」「赤シャツと私は社会変革というゴールは同じで、考えに大差はない。異なるのは私が王政支持なのに対し、彼らはその点がはっきりしないこと」などと話し、赤シャツとの共闘に含みを持たせた。軍については、タクシン派から民主党に寝返ったネーウィン元首相府相とプラウィット国防相、アヌポン陸軍司令官が手を組み、権力保持を目指していると主張した。

 ソンティ氏は2005年にPADを結成してタクシン元首相追放運動の口火を切り、その後も昨年の首相府占拠、スワンナプーム空港封鎖を指揮するなど、タクシン派との戦いの最前線で働いた。今回の暗殺未遂について英字紙バンコクポストは、昨年末のタクシン派政権の崩壊とその後のタクシン派の弱体化を受け、反タクシン派の中枢が「知り過ぎた男」ソンティ氏の口封じを図った可能性があると指摘していた。


〈民主主義のための市民同盟(PAD)〉
タクシン政権時代(2001—2006年)の2005年設立。タクシン氏の王室への不敬、汚職疑惑などを追及し、2006年春に数万人規模の街頭デモをバンコクで連続開催し、政治機能を麻ひさせ、同年9月の軍事クーデターを呼び込んだ。2007年末の総選挙でタクシン派のサマック政権が発足したため、反政府運動を再開。タクシン派政権の追放を掲げ、2008年8月26日にバンコクのタイ首相府や国営テレビ局、南部プーケット空港を襲撃し、以来12月まで首相府を占拠した。10月には国会包囲を計り警官隊と衝突。このとき死亡したPAD支持者の女性の葬儀をシリキット王妃が主宰したことから、PADは王室の支持を受けていると主張した。11月下旬からはバンコクのスワンナプーム空港とドンムアン空港を占拠し、タイの空路を事実上遮断。占拠10日目にタクシン派与党が選挙違反で解党され、政権が野党のタイ民主党に移ったことから、活動を停止した。

〈ソンティ・リムトーンクン〉
1947 年生まれ。中国名は林明達。台湾、米国に留学後、1983年にタイ字紙プージャッカーンを創刊し、タイ字経済紙のトップに育て上げた。その後、通信衛星、携帯電話へと事業展開を図ったが、1997年のアジア経済危機で経営破たんした。ソンティ氏はタクシン元首相のビジネスパートナーだった時期があり、タクシン氏の政界入りを全面的に支援し、タクシン政権の中枢に自分の人脈から人材を送り込んだ。しかし2005年に強硬な反タクシン派に転じ、PADを結成、街頭デモで2006年の軍事クーデターのきっかけを作った。
《newsclip》


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