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序章 我が家の系譜(1) —アマタ工業団地創業者、ウィクロム・クロマディット自伝—

2011年9月19日(月) 12時11分(タイ時間)
 ブルーの三菱ギャラン・シグマ車が、ピンクラオ−ナコーンパトム道路を矢筒から放たれた矢のごとく走りに走った。邪魔になる前を走るタクシー運転手はなんとかハンドルを切って避けた。

「オイ、そんなに急いで死ぬつもりなのか」
 
 タクシーの運転手は窓を下ろして、大声で叫んだ。

 私は叫び返したくなった。その通りだ、私は死ぬほど急いでいるのだ。しかし、それは一人の人物の死に出会うまえのことであった。

 私は横を疾走する他県の車を避けるために路肩に車を寄せた。車輪はガタガタと砂利を踏みつぶして、車は上下にバウンドした。道路事情には関心がなかった。とにかく目的地に早くたどり着きたいという一心であった。父からの受け取った唯一の財産である車がその場で壊れてもいいから、たどり着きたかった。

「大きい兄さん」

先ほど私に電話してきた妹ウィパーウィー愛称デーンのシャックリ声を思い出していた。

「コラーンが撃たれた」

「何だって?」私は聞き間違いかと問い直した。

「コ・ラーンが...コ・ラーンが撃たれた」

「誰が撃ったんだ」私は電話をしっかり握って、「それでどんな具合だ。今どこに居るんだ」

 妹はフーと息を吐いてから、ポツリポツリと意味のない受け答えをした。

「コ・ラーンは頭を撃たれて、もう危ないのよ。危篤状態。タールアの病院から聖パウロ病院に移送されたところ」

「じゃあ、僕は聖パウロ病院へ行って待っている」

 問答の言葉で頭の中がガンガンする私は、一体何が起きたのか、弟のコ・ラーンは決してヤクザッぽくなかったのに。では一体誰がやったのか。何よりも大切なことは、デーンが言う危篤状態だというコ・ラーンが今どうなっているのかだ。

 道路の上に上がるために、走っている軽四輪車の前へ私はハンドルを切り返した。すると相手のブレーキの音がはっきりと聞こえた。頭を包帯で巻き、ガーゼのキャップを被せられたウィテイットあるいはコ・ラーンの姿とガーゼの中の頭蓋骨の様子から、生存の可能性は10パーセントもないと語る医師の言葉が、他の危険を忘れさせた。

 私の心は烈火の如く熱くなっていた。受けた衝撃にあふれんばかりの憤怒と怨嗟の気持ちで、車のバックミラーに映った目はぼんやりと滲んでいた。ハンドルから片手を離して、強く目を擦った。私の前を走っている車に道を譲ってもらうために、狂ったようにクラクション鳴らした。命が惜しくないかのように1600ccのエンジンを力いっぱい噴かして車間を詰めて行き、前を走っていた2−3台の車を戦車で潰してしまうかの勢いで、追い抜いた。

「それでどうなった」

 聖パウロ病院のICU室の前で、母や弟たちは打ちひしがれて涙を浮かべながら、悲しい顔をしていた。暗い雰囲気の中、デーンに尋ねたことばを思い起こしていた。

「もう手遅れよ」泣いてばかりいた母はデーンに呼びかけ、

「お母さんの業(ごう)なのよ」

「かあさんの業なんかではないよ」私は我を忘れて声を上げた。

「これはコ・ラーンの業だ。私や皆のせいなんだ。コ・ラーンをこんな目にあわせたんが誰であれ、僕は絶対にこのままでは済まさんぞ」

 ガラスの衝立のうしろにあるソファーの方に目をやった。そこには私が急いで詰め込んだ長いスポーツバッグがあった。しかし、その中は体を鍛えるためのスポーツ道具なんかではない、人一人を殺すには十分な鉄砲1丁、ピストル2丁と弾丸がいっぱい入っているので。おそらく誰も想像しないだろうが、つい先程、弟の頭に弾をぶち込んだ人物を皆の前でもがき苦しませたいのだ。

 その人物とはこともあろうに父だった。私や弟たちの実父である。


 我われの人生の時間は日常の出来事を一行一行書き留める日記のようなものである。楽しいこと苦しいこと、うれしいこと悲しいこと、笑い声、泣き声、栄光と屈辱、これらは私たちをうれしがらせたり憂鬱にしたりするが、これら些細なことを人生の日記に書き忘れたり無視する事のできる人はおそらくいまい。ましてや記憶の中から消し去りたいと思っていることまでも。

 各人は自分の人生日記を持っているが、それを他人に見せたい人はあまりいないだろう。個人的なことであるばかりか、日記の持ち主を深く傷つけた傷口のように、心から忘れ去ることのできないものもある。だが、我われの人生で経験した事は、後に続く他の人にとっては処世訓になることもある。過ち、失敗、痛み、やってしまった不祥事など、私たちが踏み込んでしまった暗い泥沼や深みは、避けて通ることができる。未来に向かってもっと平坦な道を進むことができる。それに人生の原資を無駄に費やさないように、社会の重荷にならないようすることができるだろう。

 あなたがこれから読もうとしているのは、半世紀を過ごしてきた私ウィクロム・クロマディットの個人的な日記である。私は重要人物などではない。また誰か人の模範になるような人生を送ろうとしたことはない。私が自分の日記を公開しようとするのは、二つの理由がある。一つは広く関心ある人や読者に教訓や事例にして欲しいこと、とりわけ将来の国家の原動力となる若い人や社会で機会に恵まれない人、獄中や鑑別所にいる人に知ってほしい。私の人生は若い頃から大人になってからも、騙されたり、言いがかりをつけられたり、ときには勢い余ってその時の勢いで喧嘩を売ったりした。自分の運のなさやチャンスの少なさを恨んだこともあり、様々な体験をして、滅茶苦茶な人生を送ってきた。思慮もなく知恵が働かず最大の過ちを犯しそうになったこともあった。弁解の余地もないほど社会の非難を浴びていたことだろう。私としても自分の行為で一生悔やむことになっていただろう。

 第二の理由は、人生においてどれほど厳しいモンスーンに出くわしても、ひるまず臆せず手を拱かず、力をふりしぼって、しっかりと目標を目指して取り組む精神があれば、夢は適うということである。それほど難しくなく暗いトンネルの先から光が差し込むことになろう。確かなことは、いかなる成功も手の届かないほど遠くにあるのではない。


 私は華僑の客家の家族に生まれた。客家はタイのラタナコーシン現王朝に中国から移民してきた方言別5大グループ、潮州、広東、海南、福建、客家の中のひとつである。この中では客家は一番人数の少ないグループである。

 “ケ(客)”という音は潮州方言の音である。客家は“ハッカ”と呼んでいる。客家は客人である。古くは黄河流域の中原から南中国に移住してきた種族である。現在では山西、河北、山東、安徽、湖北、湖南の各省にまたがる地域に住んでいる。客家は宮中側近として重用されてきたといわれている。しかし、どちらかと言えば身勝手で、徒党を組むのが好きといわれた。それ故、王宮から放逐され他地方に遣られたという。移住の度に大規模なキャラバンを組み、気に入ったところがあればそこに住みついた。しかしそこはたいていすでに地主が居て、新参者は地元に人にとって“客”であった。そこで“客家”と呼ばれた。客家は旅行者であり、よそ者であったから、大家族で居住し、昔の城塞のような堅牢で大規模な家屋を建てて住んだ。

 客家は忍耐強さで有名である。つらい仕事も厭わず勤勉に働く。ほかにけちで、倹約家で、商売上手であることも有名である。そこでいわれるのは“中国のユダヤ人”(Jews of Chinese)である。その他に、客家は慣習に厳格なグループである。大層保守的で政治に関心が高い。だから、客家の人々の思想信条、人生観がしっかりと確実に根を張って子々孫々に継承されている。といっても自分が生活している環境や新しい文化に混ざり溶け合うこともできる。先祖以来の私の家族がそうであった。

 タイの客家は多くが広東省の梅県出身者である。タイの客家の主な姓として、丘、呉、李、林、張、趙、王、陳、鄭、劉、蕭、周などがある。初期に移民してきた客家は、仕立て屋、靴屋、革製品製造、銀細工屋、理髪店など腕前を生かした職業に就いてきた。あるいは乾物やタバコの葉を商売する者もいた。

 私の曽祖父は“丘”(写真1)といった。北京語では“チウ”と発音するが、潮州語では“クー”、客家語では“キュウ”と発音する。英語で書けばQuiで“丘、岡”を意味する。曽祖父は160年ほど前、故郷の広東省スワトウ(汕頭)に近い小さな村(写真2)からジャンクに乗ってやって来た。タイではカーンチャナブリー県タームワンに移り住んで商売を始めた。曾祖母はタイ人でイン(写真3)というタームワン出身だった。曽祖父は20歳の頃にその女性と結婚した。その後、二人はターマカー郡タールアに移って来て、タバコの葉の栽培をしていた。その頃、カーンチャナブリー県はペッチャブーン県産の葉に劣らぬタバコの葉を生産していた。当時はほとんどが密林で、気候は涼しく、植えられるタバコの葉は小さく緑が濃く匂いは強烈だった。“パークプレーク葉”[華僑は“北碧”という漢字を宛てていた、カーンチャナブリー市のこと]と呼んでいた。タバコの葉の事業は確かな収入が得られた。そこで曽祖父は村の有力者のひとりになっていた。残念なことに曽祖父は26歳の年齢で若死した。商売で中国に渡ったとき病気に罹って亡くなった。遺骸は故郷に埋葬(写真4)され今に至っている。

 曾祖母は曽祖父から事業を受け継いだ。曾祖母の実力と才気で、当時のカーンチャナブリーでタバコの葉の商売では実力を持つ女性のひとりになった。そのうえ、事業を手広く拡大発展させて、一般に尊敬されるようになった。曾祖母は激情家、温情家、頑固、大声ではっきりものを言い、本音でいう、といわれていた。また親切で寛容で、貧しい人を救援していた。

 曽祖父と曾祖母は男女一人づつの子供がいた。男は丘カーチャン(写真5)といい、私の祖父にあたる。曽祖父は130年前に息子や孫を中国に留学させているタイ華僑の一人であった。親類との関係を維持させようとするのと、中国語や中国文化を学ばせるためであった。祖父も7歳の時に中国に送られた。曽祖父の子分の親戚チェン・シンフー(写真6)という家に預けられた。この人物は後に汕頭の税関副所長になっている。
《newsclip》


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