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序 章 我が家の系譜(2) —アマタ工業団地創業者、ウィクロム・クロマディット自伝—

2011年9月20日(火) 15時35分(タイ時間)
 曽祖父が亡くなってから、曾祖母はシウサイ・シエンリウ氏と結婚している。そして子供2人をもうけた。私が子供だった頃、お爺さんの父違いの弟ギー・スッククン(写真1)と会ったことがある。いつもニコニコしていて人柄がよく、親切で寛容な人であった。市場に行く機会があると、私は彼の家の前にある椅子に座って話をした。誰にも慈愛に満ちて温かく接する人柄が地元やバンコクの人たちの尊敬を集め、バス運行事業やタバコの葉の事業をしているタールアの有力者のひとりだった。
 祖父は中国に12年間も留学して生活していたから中国語は堪能だった。20歳のときに帰国した。曽祖父は予め眉目秀麗な潮州人の花嫁を用意していた。曽祖父はわざわざスワトウ(汕頭)まで出かけて、将来の息子の嫁となる娘を調べに行き、金を払って家に連れてきていた。中国人は自分らの血筋を絶やさず、慣習を維持するために子孫を中国人と結婚させようとしていた。
 祖父(写真2)はタイに帰国すると曽祖父が手がけていたタバコの葉の事業を助けた。祖父は“畑の小作人”村人は“自分で刈入れ”と呼んでいた方式を取り入れた。これは村人たちに自分たちで植え付けさせて、祖父は彼らのタバコの葉を改良しながら収穫した葉を買い付けるのである。それからタバコの葉をヒモ状に裁断する。そして市場の求めに応じて袋詰めする。そしてバンコクの仲買人を通じて中国に輸出していた。
 タバコの葉の事業は祖父の地位を確立させた。しかし、子供の頃に永らく中国に滞在していたことが、祖父は中国とのつながりを強くして、タイ人よりも中国人の考え方をしていた。帰国しても晩年の人生に深い思いをめぐらせていた。祖父は稼いだ金のほとんどを定期的に中国に送金して銀行に預金していた。しかし、タイでの道路や橋の建設、寺院の修復、困窮者に資金援助を依頼されると断らなかった。人への支援のおかげで祖父はタールア付近の多くの土地の抵当権者になっていた。ところが第二次世界大戦が勃発すると、日本軍がカーンチャナブリーまで攻めてきた。祖父はこれはまずいと思って、これらの土地を全部持ち主にもどして、家族を連れて大型木造船に乗せ、メークローン川の河口に非難した。戦争が終るとタールアに戻ってきて、今まで通りの事業を続けた。
 祖父と祖母には男4人、女3人の7人の子供がいた(写真3)。トゥンシン、トゥンホン、ヒエン女、ブワイヒエン女、トゥンマン、トゥンパットが私の父である。そして、トーヒエン女、曽祖父は亡くなっていたが、曽祖父が守っていた慣行を守っていた。祖父とは種違いの息子や孫10人余を曽祖父がしていたように中国に留学させた。父だけが機会がなく例外であった。その頃、日本軍が中国を侵略していたからだった。父はそこでタールアの斎場で中国語を習っていた。ところが当時のタイ政府は中国語教育を禁止していたから、警察がやって来ると逃げ出さねばならなかった。だから父は自分の名前と漢字数文字しか書けなかった。兄たちのように中国に留学できなかったことが、父を僻みっぽくし、自分の劣等感にした理由であろうと私は思っている。あの時代は中国に留学し中国語に堪能であることが幅を利かしていたのである。
 私の母は客家の血筋をもっていた。母方のお爺さんはジーセン・シエンチョン(写真4)、カーンチャナブリー県タームワン郡の人、キムリエン(金蓮)別名マー(写真5)と結婚した。モン族の血と客家の血筋を引くタイ人であった。しかし彼女は膚が黒く中国系の人には見えなかった。母方の祖父母は子供が4人あり、レック、チア(写真6)すなわち私の母、ランジン3人の女の子と、男の子ケーオである。母方の祖父も暮らしむきのよい有力者であった。タールアでは一番の大地主であった。戦時中、日本軍は祖父の果樹園を横切って鉄道を敷設して、土地の一部は兵舎の敷地になっていた。しかも果樹園の中にトンネルを掘って、機関車や戦車の隠匿場所にしていた。連合軍の爆撃機から隠すためであった。そればかりでなく日本軍は祖父の家近くの池の水を飲料水にしていた。その辺りは日本軍が建設した。タールアノーイ駅の一部になっている。
 戦時中、母は17歳であった。美人で気立てがよく、愛想がよかった。臨機応変で機転がよく利いた。祖父の土地を使っている日本兵と仲良くなり、簡単な日本語が話せるようになった。それで母は日本兵から様々な特権を得ることができた。品物を持ち込んで連行されてきた捕虜たちに売ることも許された。といっても母が持って行って売っていたのは、祖父の果樹園の色々な果物だった。バナナ、マンゴー、シャム柿、竜眼、波羅蜜、楊桃、グアバ、プルーの葉など自分で巻いたタバコも売っていた。
 母がその頃商売を始めようとしたのは、面白そうという動機よりも食べる物がなくてひもじい思いをしている捕虜を見て、儲けよりも可哀想になったからであろうと、私は思っている。
《newsclip》


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