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第1章 我が家の畑を横切る泰緬鉄道(1) —アマタ工業団地創業者、ウィクロム・クロマディット自伝—

2011年9月21日(水) 21時26分(タイ時間)
 私がまだ子供の頃、大人が語る話の中で、今も記憶に残っているのは戦争ある。日本軍がカーンチャナブリーを通過する時に、私たちの家は身近に関係をもつことになった。私の生家で起こった。
 戦争は死を呼びこみ、損失をもたらし、愛する同士を引き裂き、至るところに苦痛と飢餓と災難をばらまく、人類にとって悪夢である。戦争は生き残った人々にも心に大きな傷を残し、瓦礫ばかりの社会に放り出され、退廃の状況下で、消し難い痛恨、苦痛、悲哀、意気消沈、幽愁を背負わせた。我われの世界で起きた戦争の中では、第二次世界大戦はヨーロッパ大陸全体、中東アジア、北アフリカ、東アジア、東南アジア、そして太平洋の島々と世界中を巻き込んで、兵士や民間人5700万人が命を落とした、規模最大で歴史上最も激烈な戦争と記録されている。そして600万のユダヤ人が民族の抹殺に遭遇する。文明、芸術、歴史上大切な建造物そして一般の家屋や建物が沢山破壊され、焼き尽くされた。計り知れないほどの損失を出した世界的規模の破壊であった。
 第二次世界大戦は第一次世界大戦後に残されたヨーロッパでの矛盾やドイツが非常に不利な立場に置かれたベルサイユ条約の結果、世界的不況、旧勢力と新勢力の覇権争い、政治思想の対立、民族主義の流れなどが原因となって、1939年9月1日にドイツがポーランド侵攻して、戦争がヨーロッパ全体に広がった。アジアでは日本がすでに1937年7月7日に中国に侵攻し、ドイツ、イタリアの枢軸側に加わった、1941年12月8日、誰も予想だにしなかった事件がタイで起こった。日本軍(写真1)はプラチュワプキリカン、チュンポーン、スラートターニー、ナコーンシータンマラート、ソンクラー、パッタニーに一斉に上陸してきた。その時、タイの将兵や義勇兵は勇猛果敢に防戦した。しかし、当時の総理大臣ピブーンソンクラーム元帥(写真2)はビルマやマレーへ向かう日本軍のタイ国内通過を認めた。日本側はタイの主権、独立を保障すると約束した。その後、政治、軍事、経済の協力についてタイは日本と友好協定を1941年12月10日に結んだ。そして、1941年12月21日にタイ・日友好条約を結んだ(写真3)。さらに1942年1月25日にタイは英米に宣戦布告した。
 東南アジアの日本軍、あるいは南方総軍は司令部をシンガポールに置いていた。8軍が指揮下にあり、ビルマ(ミャンマー)、インドシナ、マレー、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、パプアニューギニアなどに駐屯していた。タイは飯田祥次郎中将(写真4)が指揮する第15軍が進駐してきた。しかし、兵力は大きくなかった。兵力の多くはビルマ、マレー・シンガポールに向かい、太平洋で展開していた。日本軍はビルマに軍を進め、中国国民党の軍を牽制した。中国軍は東シナ海沿岸から日本軍に追撃されて内陸に移動していた。ともあれ日本軍はビルマに兵を送りこむのに問題を抱えていた。日本の後方輸送船はインド洋で連合軍の潜水艦の攻撃に遭っていた。アンダマン海でも撃沈されていた。日本は兵力や食糧、武器弾薬の輸送経路として、さらに英領インドへ進軍するために、タイからビルマに向かう鉄道建設を決断した。マレー鉄道とタイ南部線をつなぎ、ビルマに連接しようとするものであった。かつてイギリスの専門家が鉄道建設の調査を行なって、建設には5年はかかると推計していた。しかし、戦況にとって泰緬鉄道は不可欠になり、日本軍は1年で完工することを決め、タイ政府は1942年9月16日に調印した。日本側は泰緬鉄道建設のため、タイ政府に400万バーツの借款を申請していた。建設工事に着手して間もなく、計画は8か月に短縮され、結局1943年10月25日に完成した。8か月になる9日前の1943年10月25日に開通させたが、その後1年余りで日本は降伏した。泰緬鉄道はイギリスのものになった。タイ政府はイギリスから125万ポンドあるいは5000万バーツで買収し、泰緬国境付近の鉄道線路を撤廃した。
 泰緬鉄道(写真5)は全長415キロあり、タイ側が315キロ、ビルマ側が101キロあった。ラーチャブリーのバーンポーン郡ノーンプラードゥック駅を起点として、戦場にかける橋のクウェーヤイ橋のあるカーンチャナブリー県を通過し、クウェーノーイ川に沿ってビルマとの国境の三仏塔峠を越えてビルマ側に入り、モールメインとタウンジーの間にあるタンビューザヤ駅に達する。建設工事に使役した労働者(写真6)はイギリス兵、オーストラリア兵、オランダ兵、アメリカ兵などの捕虜6万人と、タミル人やマレー人、ビルマ人たちアジア人労働者20万人だった。鉄道建設はカーンチャナブリー県の密林を切り開かなければならず、密林の中には熱病が猖獗していた。一方、短縮された期間内に完成させため、朝早くから夜遅くまで働かされて、捕虜や労働者に病気で倒れる者が続出した。治療薬もなく数万もの人々が命を落とした。クウェーノーイ川に沿って高い山地の縁を通過しなければならないカセー洞窟付近(写真7)は、捕虜や労働者が1000人以上が死亡した難工事地点だった。この鉄道建設工事には捕虜16000人、労働者約10万人が犠牲になった。死者の遺体は線路のそばに埋められて、あたかも戦争の残虐さを表現するような墓標である。それ故、この鉄道は“死の鉄道”と呼ばれている。
 実はこの泰緬鉄道が母方のお爺さんの果樹園を横切っていたのだ。カーンチャナブリー県ターマカー郡タールア村では一番大きな果樹園の持ち主であった。私が物心ついた時から戦争と死の鉄道について見聞していて、救い難い当時の状況になんとかできなかったのかと思うのは、身近ないきさつがあったからだった。親類の話では、日本軍の工事関係者が祖父の土地近くに鉄道駅を建設したのが、タールアノーイ駅であり、死の鉄道の4番目の駅になった。最初の駅は26キロ離れたノーンプラードゥック駅である。
 タールアノーイ駅は蒸気機関車の水を補給する駅であった。泰緬鉄道の建設隊長の石田英熊司令官の話では、カーンチャナブリーを通過するノーンプラードゥック駅からの50キロの距離の建設は平地の田畑を通るから楽だったという。難工事はクウェー川を渡って奥へ向かう山地区間でであった。
《newsclip》


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