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第1章 我が家の畑を横切る泰緬鉄道(2) —アマタ工業団地創業者、ウィクロム・クロマディット自伝—

2011年9月22日(木) 18時58分(タイ時間)
 泰緬鉄道は軍用鉄道だったから、連合軍とりわけアメリカ軍はB24 やB29爆撃機(写真1)をスリランカに送り、建設工事が終ってからインド洋を越えて飛来し、鉄道線路や基地を攻撃し始めた。日本軍は機関車やタンクを隠匿するために洞窟を掘った。その洞窟が私の祖父の土地の中にあった。3-4メートルの深さの洞窟を掘って、約100メートルほど果樹園の端を突っ切っていた。洞窟の隅を池の高さに合わせてあったのは、雨が降ってきたときに雨水が洞窟に溜まって溢れないようにするためであった。洞窟の上には土嚢と網が被せてあった。付近にはマンゴーの木、波羅蜜の木、シャム柿の木など様々な木が生い繁って、カモフラージュしていた。アメリカの飛行士の眼をうまく誤魔化すのに十分であった。私が子供だった頃、洞窟はまだ残っていて、私や友だちはツタの蔓にぶら下がって遊んだりした。そして暑い昼下がりには中で昼寝をした。地面は湿っていて冷たく気持ちよかった。

 母の妹であるケーオ叔母さん(写真2)は私にこんな話を聞かせてくれた。日本軍はマンゴー、グアバ、波羅蜜、マフアン、シャム柿、竜眼、ビンロウなどの樹木を植えてある果樹園を仕事に使っていた。当時、日本兵(写真3)はカーキー色の軍服を着て、長靴を履き、脛にゲートルを巻き、日本刀を腰にぶら下げていた。シャベル、スコップ、ツルハシ、ナタ以外は、作業工具を持たない鉄道建設の捕虜や労働者を鉄砲を持って監視していた。一方、タイの商人は枕木を売っていた。捕虜たちは朝は近くの収容所から出てきて、夕方には帰って行った。

 祖父は人柄が善かった。よく果樹園の果物や水を日本兵に差し入れていた。また、ビンロウの実を噛む習慣を持つインド人やジャワ人の労務者にもプルーの葉を採って来てビンロウの実と一緒に無料で配ってやっていた。祖父は地面に漢字を書いて日本兵と意思の疎通を図ることができた。お互いに性格が合った。日本兵は規律正しく、祖父母に敬意を払い、祖父の3人の娘には手を出すことはなかった。祖父はそれで安心し、戦時中どこへも避難しなかった。ラーチャブリーのメークローン川に河口に非難した父方の祖父とは違っていた。

 タールアノーイ駅の建設には、私の祖父の果樹園を技術兵20−30名の宿舎に使っていた。さらにノーンプラードゥック駅から連行してきた一部の捕虜も祖父の家から離れた場所にキャンプを作っていた。捕虜のキャンプは屋根を簡単に棕櫚の葉で葺いた簡単な作りで、衛兵が厳しく監視していた。そして汽車が食糧を運んできた。同時に男女の商人が野菜や果物を持ち込み、コメや魚、豚肉、鶏、アヒルの肉を持ってきては日本兵に面白おかしく売りさばいていた。その頃、年齢17歳だった私の母も市場からバナナ、うで卵、粽や様々なお菓子、果樹園から採ってきた果物をタールアノーイ駅に売りに来ていた。初期の頃は、汽車(写真4)は日に2列車やってきた。しかし、後になると何時来るか不定になった。時には夜の9時、あるいは夜中の12時であった。汽車が何時に来ようが、いつも母は起きて物売りに出かけた。当時、ほとんどが鉄道隊員である日本兵たちが、きまって祖父母の家に水を飲みに立ち寄っていた。そこで次第に親しくなり、チョーンカイの捕虜収容所に物売りに行くのに、母は許可を得た。祖父の果樹園でとれた果物と粽、うで卵などを篭4-5杯に入れて、列車の屋根に載せて、母は当時8歳の妹であるケオ叔母さんを連れて列車の屋根に乗って行った。ボギー車は日本兵や積載品でもう満員だったからだった。

 ケオ叔母さんが語るのに、捕虜収容所には色々な民族が居た。西洋人、中国人、インド人などいっぱいいた。だれもがとても可哀想な状態であった。痩せこけて骨に皮が張り付いたような様子で、ある者は熱病に罹っていた。話して通じる者もいたし、通じない者もいた。たいていは身振り手振りであった。母は日本語がカタコト話せた。美人でテキパキしていて、商売はうまく行った。日本兵はたいていタイ人と仲が良かった。なにかと便宜を図ってくれた。タイ人がちょっと怪我しても、どこからか薬を探してくれたりした。ところが捕虜には厳しくて残忍だった。ケオ叔母さんはかつて逃げようとしたり騒ぎを起こした捕虜を日本兵が射殺する場面を見たという。ときにはまだ死んでいない捕虜を穴を掘って埋めたりしていた。

 日本軍が一番嫌ったのは盗みであった。母が私に語るところでは、近所のインという名のおじさんが日本軍の電線を盗んで捕らえられた、すると日本兵は石鹸水を飲ませ、腹が膨らむと、膝で何度も腹を踏みつけ、水を吐き出させていた、そして瀕死になったところで釈放されたという。また誰かタイ人が石油を盗むと、日本兵は石油を口の中に流し込み、腹を踏みつけるのである。こうすることで、誰も日本軍の物資を盗もうとしなくなった。

 鉄道線路が完成すると、捕虜や労働者たちはキャンプから連れ出され線路上を列を作って線路を歩いて行った。木を伐採して、前方に向かって道を拓き、地ならしし、そして鉄道線路を継ないで行った。人々は痩せこけて力は無かった。明日への夢とか希望のかけらもなく、眼光は干からびて、陰鬱な顔つきであった。あたかも彼らを待っている死への空しい旅のような感じがした。

 ケオ叔母さんが憶えているのは、お爺さんの果樹園には何も残さなかった、ということである。ニワトリの篭、ブタ小屋以外に、電話線2巻が池の中に放り込まれていた。一方私の母は戦時中の商売で相当の資金を蓄えることができた。大切なことは、商売の仕方を自ら身につけていたことだった。その後の人生で母は自分で十分生きていけるようになっていた。
《newsclip》


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