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第1章 我が家の畑を横切る泰緬鉄道(3)

2011年9月23日(金) 16時31分(タイ時間)

 私は日本の元タイ駐在大使太田さん(写真1)に会ったことがあり、かつてカーンチャナブリーに駐屯していた日本兵で、泰緬鉄道建設に来てタールアノーイ駅を建設した兵で存命の人はいないか探せるか相談したことがある。今の駅周辺の状況と当時の日本兵とタイ住民との友好関係を伝え、私が祖父や母から聞いていた話とつなぎ合わせて見たいと思ったからであった。太田大使は熱心にあちこちに当たってくださり、遂にタールアに駐屯したことがあり祖父の家族や母と親しくしていた、ある一人の下士官の大塚武次元曹長に出会った。

 2006年に私は日本へ行く機会があった。そこで太田大使と待ち合わせをして、東京から電車で半時間ほど離れた神奈川に住む大塚曹長に会いに行った。

 大塚曹長は92歳になっていた。しかし体は丈夫で記憶も衰えていなかった。彼はかつて70年前にカーンチャナブリーで出会った村娘の息子に会えて、喜んでいるように思えた。

 大塚さんは(写真2、3)、21歳の時に兵となり東南アジア方面に派遣されて、最初はシンガポール、次いでビルマ、それからタイに来て、カーンチャナブリーには6か月居て、それからマラヤに転戦したという。終戦時には連合軍の捕虜となり、釈放される前に2年間泰緬国境の鉄道線路の撤廃工事に従事していたという。この話になると、大塚さんは残念だと言いながら涙声になり、「私はとても残念で恥ずかしい思いです。私や捕虜になった仲間に対するイギリス軍の扱いは、日本軍が連合軍捕虜に対しておこなった扱いよりはるかに良かったのです」

 タイに駐在していた時、大塚さんはカーンチャナブリー地区にある日本軍施設の警護に当っていた。常時あちこち見回りをしなければならなかった。私の祖父の果樹園の中にあるキャンプにも宿泊したことがあるという。わずかな期間であったが、永らく印象に残っていたのである。大塚さんによれば、当時のタールアノーイは小さな集落にすぎなかったという。ところが食べ物や飲み水が豊富にある豊かな地域であったので、短時日の間に鉄道を敷設し、タールアノーイ駅を建築することができた。

 大塚さんは思い出しながら言った。彼や戦友は日本から送られてきた味の抜けた古米を我慢して食べなければならなかったが、運が良かったのは村人が売りに来る豚肉があり、魚があったことだった。タールアノーイ駅はメークローン川からわずか200-300メートルしか離れていなかったので、村人たちが近在の村から船で運んでくる食料を買うのには便利であった。ともあれ、私の母はその頃16-17歳だった。日本軍は祖父の土地にキャンプを建てているし、祖父の掘った井戸の水を使っていたから、他の商売人よりは有利な立場にあった。その上、母は美人で愛嬌があり、おしゃべりが好きで商売が上手いものだから、彼らは母から果物やバナナ、マンゴーなどの果物やお菓子を買っていた。彼らと母は言葉が通じないので十分な話はできないが、なんとか理解はできた。そこで冗談を言い合い、家族の者同士のような関係ができ、彼らは母が汽車に乗って捕虜収容所へ物売りに行くのを許可していた。

 歳をとり年月が経っても、日本軍の将兵であった精神は大塚さんの心からはまだ消えていなかった。彼はいまだに武士道精神に満足しており、天皇に忠誠を誓い、その名誉と尊厳を守る気概と勇気と自負を持っていた。仲間の団結を守り、国家のために犠牲になる精神を維持していた。

 大塚さんが私に何度も語った言葉は、「70年に前に会ったタイ人女性の息子さんである私に会えたことは、とても幸運であり、もうこれで死んでも悔いはない、永らく消えていてもう戻ることがないと思っていた過去の記憶に出会うことができた、カーンチャナブリーで一緒に居た戦友たちに、あの世に行って会えば、自分が私に会ったことを報告したい、この瞬間に死んでも大層幸福である」

 日本軍が進駐してきた時、父方の祖父は情勢が悪いと判断して、借金のかわりに抵当権をついたまま持っていたタールアの土地を、元の地主に譲渡してしまった。そして妻子を連れて、タバコの葉を運んでいた木造船に乗せてメークローン川の河口にあるラーチャブリーに避難していた。

 父の妹になるセークー伯母(写真4)は、戦時中住み慣れていた家を捨てて、必需品だけを持って、父母兄弟、嫁たちと1隻の家族の船に乗り、親類や近所の人の船2-3隻と一緒になって、ポーターラーム警察署の前に繋留して暮らしていたのを憶えていた。この付近はカーンチャナブリーの華僑たちが川べりに列をなして家を建てて住んでいた。祖父は何もせず船の中で座ったり寝転んだりしてくらしていた。祖父は7歳から20歳になるまで中国に住んでいたからであろう、タイ語が上手くなかった。日本軍はタイ国内の救国運動をする中国人を掃討していた。父は中国に大量の預金を持っているのを日本軍に知られることを恐れていた。祖父は危害が自分や家族に及ばないように、安全のために一切の財産を捨て、抵当権を持つ土地や借金も全部相手に譲渡してしまった。それら彼らの資産だとオ考えたからだった。太陽の子の軍隊の進軍経路から家族を離して移住していたのである。長男のトンチン伯父(写真5)だけがタバコの葉をこっそりと畑から運び出して売っていた。そして安全だとわかると、祖父は元のタールアに戻って来た。
《newsclip》


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