RSS

第2章 第二次世界大戦 —アマタ工業団地創業者、ウィクロム・クロマディット自伝—

2011年9月26日(月) 12時22分(タイ時間)
 第二次世界大戦はアメリカ、イギリス、カナダの連合軍が、1944年6月6日朝にフランスのノルマンディー海岸に上陸した時から、重大な転換点に入って行った。壮烈な戦いの後、連合軍がノルマンディーを奪取すると、3日後にはさらに南部で第2回目の上陸作戦を敢行し、ライン川方面に進攻して、10月にはベルギー、フランスをドイツ占領から開放し、遂にベルリンにまで到達した。同じ頃、東部戦線ではソ連軍がヨーロッパ大陸を横断し、ポーランドや東ヨーロッパ各地に侵入して、ベルリンに進軍していた。

 ドイツは1945年5月7日に降伏した。翌朝、ヨーロッパの戦争終結(Victory of Europe Day) あるいはV-E Dayを宣言した。

 ともあれ、ヨーロッパでの戦争は終結したが、アジア太平洋戦争はまだ終わっていなかった。日本軍は勢力が衰弱したとはいえ、各地の占領地に駐屯していた。1945年8月6日朝、人類史上初めて、戦争の最も悲惨な出来事が起った。アメリカ軍の爆撃機B29が、日本の広島の上空3万1000フィート(1万メートル)上空に姿を現した。爆撃機が搭載していたのは13000トンの爆発力を持つ、“リトル・ボーイ”の愛称で呼ばれた原子爆弾だった。目標地点は太田川にかかる相生橋だった。“リトル・ボーイ”が投下されるや、直径半マイル(約1キロ)に巨大なキノコ型の毒煙霧が上空に立ち上った。女性や子ども、老人がほとんどの市民たちはたちどころに6万9000人が即死し、重傷者、放射線で受けて身体障害者、さらに10万人以上もの重症者を生み出す結果となった。

 それから3日後、長崎が広島と同じ運命に見舞われた。今度は“ファット・マン”の愛称で呼ばれた2番目の原子爆弾によって、4万5000人が即死し、2万5000人が重傷を負った。

 日本は8月10日に降伏を受け入れ、8月15日の午後に、昭和天皇が全国民に向けたラジオ放送を通じて日本の敗戦を告げた。その直前に日本政府はワシントン駐在スイス大使館を経由でアメリカのトルーマン大統領に電報を送り、公式に降伏を申し出ていた。そこでこの日をVictory over Japan Day あるいは V-J Dayと呼んだ。日本人は戦争が終った日という意味で「終戦記念日」という。

 広島と長崎の原爆投下については、すでに日本は降伏のシグナルを表現していたにも関わらず、アメリカはそれほどの過激なことをする必要があったのかという疑問の声があがった。原爆投下が終戦を早め、日本軍を降伏させるため、日本に上陸してアメリカの将兵の命をむざむざ失うのを防ぐため、と信じられているのであるが、原爆投下は東アジアにイギリスやフランスに代わってアメリカの軍事的威力を誇示し、影響力を行使するためであることと、ソ連勢力の進出を阻止するためであったとする見方がある。、

 結局、2個の原爆投下で、わずか2日で14万人以上もの人命を奪ってしまった。そしてその日を生き延びた20万人の人々が被爆者(Hibakusha)として、一生疼く苦痛に耐え忍ばねばならなかった。

 多くの人の記憶に残されて消えることのない話は、2歳の時に原爆の犠牲になり父母兄弟を失くし天涯孤独で、原爆障害で10年間も闘病生活を送った少女、佐々木禎子(Sasaki Sadako)さんのことである。病院で寝たままの彼女が不屈の精神で健気に信じていたのは、誰でも紙の鶴を1000羽折れば願い事を適えてくれる、という話であった。彼女は早く元気になりたいと願って病床で千羽鶴を折り続けていた。ところが彼女は千羽を折り終える前にこの世を去った。

 現在、『禎子と千羽鶴』という書と、彼女を悼んで広島市民が建てた鶴を放す少女の像「原爆の子の像」が、戦争の残酷さと恐ろしさを世界の人々に知らしめるためにある。その像の台座には「これが泣き声です。これが私たちの願いです。世界に平和を」という言葉が刻まれている。

 タイ国はピブーンソンクラーム政権が国家主権を維持するために、1942年1月25日に連合国に対して宣戦を布告した。国内外に居るタイ人の多くが政府に反対した。

 ワシントン駐在のタイ公使M.L.セーニー・プラーモートはコーデル・ハル(Cordell Hall)国務長官に会見し、宣戦布告はタイ国民の本意ではないことを表明した。ハル氏はそれなら宣戦布告書を提出しなくても良いと提案し、公使はその提案に従った。タイとアメリカは敵対状態ではないことになった。

 アメリカに居たタイ人は多くが留学生であったが、政治面の責任者にセーニー・プラーモート公使、軍事面を当時の公使館駐在武官カープ・クンチョーン陸軍少佐にタイ側との交渉を委ねて、そのうちの80人が200万ドルの資金で自由タイ運動を起した。その後、アメリカの諜報機関O.S.S.(Office of Strategic Service)所属のニコル・スミス少佐が、後方でゲリラと同じような仕事をする諜報活動支援に加わった。ニコル少佐は自由タイの志願隊のアメリカ側の司令官であった。情報スパイ活動の訓練を受けると、自由タイはタイに潜入して行った。

 1942年6月にマニー・サーナセーン氏はM.L.セーニー・プラーモートの要請で、イギリス駐在タイ人に自由タイ結成を呼びかけるためアメリカから派遣された。ロンドン駐在タイ公使は、政府の命令に反して抗日地下運動に参加する意思はなかった。イギリスの自由タイはプワイ・ウンパーコーン博士、ラーマ7世王の妃殿下ラムパイパンニー妃の兄スパサワットウォンサニット・サワットディワット殿下がリーダーとなり、公使館館員、留学生らが参加した。当時タイとイギリスは宣戦布告した仲であり、イギリスはタイ人をタイ本国に帰還させようとしていた。自由タイはイギリスから公的な支持も信頼も得ていなかった。しかしイギリスも36人のタイ人をイギリス軍に受け入れ、ゲリラ戦の訓練を受ける前に処理運用の訓練を行なっていた。その後にインドに送られ、情報部隊に配属された。

 プワイ・ウンパーコーン博士率いるイギリスの自由タイ第1班3名は、1944年3月15日に落下傘でタイへ潜入した。アメリカの自由タイが徒歩で潜入した直後のことであった。スクムウィット通りソーイ35の拙宅でラチット・ブリー医師から聞いた話では、1943年4月から1年間イギリス軍の工兵隊で訓練を受け、20日後に他の自由タイのメンバー2名サムラーン・ワンナプルット少尉、タナー・ポートヤーノン少尉とともに日本軍の情報を探るため、B24爆撃機から落下傘でナコーンサワンに潜入したという。

 またラーチャクルーの家でシティ・サウェートシラー空軍大将に会う機会があった。閣下はアメリカで自由タイのメンバーだった。戦時中、閣下はM.I.T.の3年に在籍する留学生だった。B24でチエンマイに落下傘で降りたが、日本軍の陣地からわずか13キロしか離れていなかった。それからひそかに汽車に乗ってバンコクに出て行った。秘密警察に匿われて、次いで王宮前広場横のシンラパコーン大学の教室を使った捕虜収容所に入れられた。一度は日本軍の尋問を受けたが、結局は終戦になった、という。

 タイ国には秘密裏に抗日運動を進める2つのグループがあった。ひとつは摂政の地位にあったプリーディー・パノムヨン氏をリーダーとするグループ、もうひとつのグループは警察局長ルワン・アドゥン・アドゥラヤデートチャラットをリーダーとするグループであった。双方は別々に行動していたが、戦争末期には協力するようになった。プリーディー・パノムヨンはタイ国内に潜入した自由タイのメンバーを支援して、自由タイを統合強化していた。

 ピブーンソンクラーム元帥が日本と同盟条約を締結し、英米に宣戦布告したために、タイは枢軸国側に加わった。その結果、政治的、経済的、社会的な問題が生じた。特に、日本軍によるタイ国内の物資調達で、バーツ貨が下落し、予算が赤字になりインフレを起こした。ピブーンソンクラーム元帥自身も日本に疑心を抱き信用していなかったが、タイが責任を取らざるを得ないので、様々な政策を採らざるを得なかった。例えば警察力を増強し権限を拡大したり、憲兵隊を設置したり、バンコクからペッチャブーンへ首都移転を目論んだり、国粋主義的信条“ラッタニヨム”では、キンマを噛むのを止めさせ、古い腰巻の衣装をズボンや背広を着て帽子を被るようにし、タイ文字を書き易いように改変したりして、タイ人を文明人にするためという文化政策を採った。

 ピブーンソンクラーム元帥は国民代表議会の議員とタイ駐屯日本軍司令官双方から政治的圧力を受けていた。そして遂には1944年8月1日に首相を辞任した。クワン・アパイウォン少佐が代って首相の地位に就いた。日本が降伏したとき、クワン首相は辞任し、セーニー・プラーモート元公使が帰国して首相の任に就くまでの間、タウィー・ブンヤケート氏が17日間首相に就任した。

 1945年8月16日摂政のプリーディー・パノムヨン氏が英米に対して発した宣戦布告は国民の意思に反し、自分は署名していなかったという理由で、無効であると宣言した。さらに日本が割譲した領土を元の領有国に返還し、戦争犯罪人を裁く軍事法廷をを設置することを提案した。
 アメリカはタイから何の代償も要求せず、ただちにタイの無効宣言を認めた。一方、イギリスは様々な要求項目を提出してきたが、アメリカは数ヶ月かけて仲介し、ようやくイギリスは戦争状態の完全な終結を認め、タイとシンガポールで調印した。1946年1月1日にはタイは戦時中に獲得したマレー4州とシャン州をイギリスに返還し、戦時中にタイによって接収されたイギリスの資産に対する賠償を、米穀1,500万トンで弁済すことになった。タイは他の敗戦国のように占領されて主権を失うこともなく、政治的軍事的拘束もなく、ずいぶん軽減されたと思った。

 今の世界は常に多面的であって、どちらの面を見ているのか、どちらの面を選ぶのかは、我われ次第であると私は考える。タイが英米に宣戦布告したのも、ある人は言い訳であるといい。あるいは二股外交と見るだろう。と同時に侵略者の食指から逃れるためのタイの老獪な外交手段、狡猾な外交策と見るだろう。

 しかしどう見られようと、タイの独立・主権・尊厳を今日まで保持しようとしたことが重要であり、その時代の人物の勇敢さ、犠牲的精神、判断力によるものである。
《newsclip》


新着PR情報