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第3章 幼き頃の父と祖父への思い出 —アマタ工業団地創業者、ウィクロム・クロマディット自伝—

2011年9月27日(火) 11時15分(タイ時間)
 太平洋戦争はアメリカ側の勝利で終わった。太陽の子の軍隊の完膚無き敗北は、戦争の餌食となった人命の計り知れない損失と国家に破壊を残した。タイ国自身も少なからぬとばっちりを蒙った。多くの人はもと居た土地を離れ、家族や恋人から離ればなれになり、古来いわれてきた豊穣の大地には、貧困が蔓延していた。道徳は地に堕ち、社会は動揺して、悪賊がはびこり、中央部タイとりわけスパンブリーや私の故郷のカーンチャナブリーなどは、人々を襲う山賊や悪漢の巣窟になって恐れをなしていた。タールア村では日毎に殺人事件が発生していた。時には警官に撃たれた犯人が道の真ん中に倒れていたりした。私らは宵の内からはやばやと寝ていたりした。しばらくは事件の生じた場所を避けて通ったりしていた。私や弟たちのような子供に恐怖心を植え付けたのは、母が語る凶悪な話であった。ある日の夕方、私たちが楽しそうに話している時、村人がやってきて、家から200—300メートルも離れていない川のほとりの舟で人が撃たれて死んだと、母に語った。愉しげな雰囲気は一気に緊張感に変わった。恐ろしい事件だけでなく、田舎でのランプ生活では道路に光のないような暗がりの闇夜は、ますます怖さを増長させた。そんな時に母はカーンチャナブリーに跋扈していた残虐なギャングたちの話をした。“黒いトラ”、“かみそりトラ”、“赤いトラ”などと呼んで、資産家ばかりを狙う残虐非道な輩が、警官に付け狙われて撃ち殺された。私は怖がりになってしまい、日が暮れると家の中で一人でいるのを怖がるようになった。夜中には家の隅の暗がりにお化けが潜んでいて、お化けが私をたぶらかすような気がしてならなかった。

 私は銃声や血生臭さと争い事の中で育ってきたといっても過言ではない。こんなことは日常茶飯事で出くわしていたからだ。殺し合いの場面も見たし、ある晩は家の前で銃声が響きわたり、凶悪事件が発生したにちがいないと感じたりした。しかし、蚊帳の中から出て窓を開けて見る勇気はなかった。闇夜がいつまでも続く中でひやひやしながら寝るしかなかった。夜が明けて何が起こったのかと、這い出して見回した。射殺された者の死体や負傷した人の姿を発見できなくても、路上に流れた血の跡や忌まわしい血を砂をかけて消し去ろうとした跡、そしてガヤガヤと噂する声で、何か事件が発生したことを知るのである。

 今でもしっかり覚えていることがある。私が10歳の頃だった。真昼間の出来事だった。プラテンドンランへ向かう鉄道線路沿いの畑に、買物して持って行こうとしていた。布製の帽子を被った男が短銃を持って仁王立ちになり、手押し車を押す男を撃った。鉄道線路を横切ろうとしている時だった。撃ち手は見事であった。一発で男を仕留めて動かなくした。しかしそれでも足りないのか、歩み寄って完全に息の根を止めるべく、さらに撃ち込んで、それからバイクに乗ってそそくさと立ち去った。恐ろしさとあっけにとられて私は立ちつくしたまま体が震えた。私からわずか70メートルほど離れたところで起こった事件だったからだ。

 鉄道ではもうひとつある。お婆さんの家の付近で起きた。20—30歳くらいの男2人が短いナタを振り回して争っていた。2人とも血を流して痛そうだけれど、誰一人として止めようとしなかった。その頃の私の住んでいる地域では、問題解決には話し合ったりするより、殴り合いや、刀や鉄砲で手っ取り早くケリをつける方が多かった。そのせいで多くの人が命を落としていた。怪我したり障がい者になるのは“名誉”なこととされた。いくつもの事件がお互いに知らない者同士でも起こった。ちょっとしたことで、気に食わないからと、拳銃を抜いて撃ち合いをして死んでいった。人間として生まれてきた価値が全くない、魚や野菜のような人生だった。

 私の身近な人の間で2、3回出くわした。ひとつは、夕暮れ時に帰宅した時だった。遠縁にあたるやくざ風のコ・ヤックがセーンチュートー通りにある家で2人の男に11ミリ口径の銃で撃たれ、血だらけになっていた。まだ死んでいないとわかるや、相手は残忍にも口に銃口を突っ込んで撃ち、即死させようとした。私の脳裏から消し去ることのできない場面だった。ところが信じられないことにコ・ヤックは奇跡的に生き延びた。11ミリの弾丸は急所に当たっていなかったのだ。奥歯は折れてしまっていたが、背骨あるいは喉骨にはあたっていなかった。その日以来、コ・ヤックは人が変わって、やくざな世界から一切身を引いた。

 もうひとつの話は私自身の父のことである。せっかちな性格で、話しても聞き入れなければ、父は怒って何度も悶着を起した。父の嫌いな相手か、いさかいをした相手かが、殺し屋を雇って、殺し屋が家の周りをうろついていたことがあった。運良く伯父の部下が殺し屋の親戚で、けげんに思って、どうしてこんなところをうろついているのか、出て行って話をして頼みこんだ。それから母が自分からでかけて行って殺し屋に会い、全部ケリをつけてきた。母がすんでのところで父の命を救ったようなものである。女性にしては誠に勇敢な振る舞いであった。

 当時の男たちはある種の自分の名誉を重んじていた、と私は思う。“殺されても仕方ないが、面子はつぶれされたくない”という言い方は、自分の保身に走るよりか、ヤクザな侠気を自慢するほうが好きだったのだ。穏便な方法で問題解決するよりか“目には目を、歯には歯を”といった価値観が強かったのである。 だからタールア村にはさまざまな年代のヤクザがうようよしていた。私が知っている限りでも、市場にいたり歩いていた何人もの人が、子供から大人まで、まっとうな人生を終えずに死んでいた。人間に相応しい年齢で人生を終える人は少なかった。子供の頃から若者になる時期に私が体験した環境は、“凶悪、下劣、残虐”に囲まれてあった。

 戦後、ある種の人の人生は手の平を返したようであった。とりわけ、生きぬくための生活手段を持たない、月給だけで生活していた役人とか、親の財産に頼って暮らしていた金持ちの子孫たちは、経済の金詰りとかインフレとかに出くわし、社会的地位や面子を保つことは望むべくもなく、すってんてんになって“貴人が路地裏人生を送る”といわれた。一方で、殺伐とした時代を千載一遇のチャンスとばかり、活かす人々もいた。私の母はこのグループに入る。母は戦時中に商売の仕方を会得していて、苦労をものともせず、一か八かに賭けていた。当時、かなり貯めた資金を、戦争が終わるや直ちに商売につぎ込んだ。 その頃、タイは米が不足していた。政府は県を越えて米穀の売買を禁止する条例を出していた。しかし、母はこっそりと隣のナコーンパトム県ナコーンチャイシー郡から米を買い取り、カーンチャナブリーで売っていた。米ばかりでなく、煮魚や乾物なども売っていた。母は女ながらじっとしているのが嫌いで、カーンチャナブリーとバンコクを往復する定期バスを運行する、新しい事業を起した。こうして母はカーンチャブリーでは初代の女性企業家になった。

 終戦後、お爺さんがタールアに戻ってきた。私はまだはっきりとお爺さんの家を憶えている。家は棕櫚の葉で屋根を葺いてあり、外はタールアノーイ駅に通じる道があった。扉は木戸で屋内はつるつるとした大きな板敷きがあり、座ったり寝ころんだりできた。左手にお爺さんとお婆さんの部屋があり、右手は畑から取り入れたタバコの葉を乾燥させ、貯蔵し刻む作業場になっていた。毎日、作業員たちがタバコの葉を持ち込んでは、選んで、きれいにして、市場のニーズに合うような味を出すために古い葉と混ぜていた。それから木製の裁断機に入れるのであるが、重ね合わせたタバコの葉を整える溝があり、鋭利な大きな刃がついていて、タバコの葉をヒモ状に刻んだ。タバコの葉がぼろぼろにならないように、乾き過ぎないように、霧状に水をかけて葉を湿らせる作業員がいた。水が多すぎると外で干した。こうして出来たタバコの細いヒモは丸く盛り上げた。これを“味のきついタバコ”と呼んでいた。そうでないのは薄い白い紙を巻く機械にかけて、両端を切って、紙巻きたばこにした。タバコの葉はこうした工程を経た後、箱に詰められ、お爺さんの貨物船に載せて、メークローン川をくだり、バンコクに運ばれて行った。商人らはそこから中国に輸出した。

 父母が結婚したのは1951年末であった。それから1年おいて、私が生まれたのは1953年3月17日夜中の24時であった。ちょうど火曜日と水曜日にまたがる時間であった。それから特別な地位が私の生涯についてまわった。願書を出す必要もなければ、辞職する権利もなかった。その地位とは9人の同腹の兄弟とさらに11人以上の腹違いの兄弟の長男という地位である。あれこれ入れて今では23人の兄弟である。しかし、弟や妹たちの面倒を見て、育て上げて、それぞれの道で成功を収めて、一心同体となって団結しているのが、私の人生でもっとも誇りにするところである。

 お爺さんは中国式の占星術を知っていて、私が生まれた頃、子や孫、隣近所の人たちの運勢を占っていた。私の運勢を占って母に語っていうには、運のいい子で将来も一族に繁栄と発展をもたらしてくれるということであった。お爺さんは私に中国名“鎮峰”(ティンフォン)と名づけてくれた。私は小学校4年までは“上邱鎮峰”という姓名を用いていた。当時、タイの華僑が中国の姓名からタイの姓名に変更するのが流行った頃で、父は“上邱”という中国の姓からタイ語の姓“クーワチャラチャルーン”に変更した。姓は変えても私の名前はそのままであった。

 私は商売の雰囲気の中に生まれてきたといっても言い過ぎではない。セーンチュートー通99番地にあった家は市場に接していて、木造2階建の長屋であった。今では50年以上たっているだろう。扉は折りたたみ式の木戸で1フィート、内側から閂を差し入れて、外側から開けることができないようになっていた。だから私は門番のつもりでいた。父が遅く帰ってきたときには、父が私の名を2,3回呼んだ。私の耳にはけたたましいベルの音のように聞こえた。眠たい時や寝入った矢先にたたき起されるようなものである。私はハッと目を覚まし、一緒に寝ていたお爺さんの部屋からガバッと飛び起きて父のために閂を開けた。15歳まで続いていたが、県外で学ぶようになって自然と終わった。

 扉を開けて入ると右手にお婆さんの部屋が見え、左は広い土間になっていた。売りにきた人が置いていった、干し唐辛子、棉、ヒマ、トウモロコシ、トウジンビエ、大豆、様々な農産物が山盛りになってあった。適当な量に増えたとなると、100キロ毎に袋に詰めて、“0発利”という印を押し、バンコクの卸商人に売った。卸商はそれを日本に売っていた。農作物は次第に増えて、2回に上がる階段にまで迫ってきた。2階は空き部屋だったが、夜は家中の者の寝室になっていた。

 お婆さんの部屋は父が仕事場にしていた付近にあった。といっても机がひとつあって、父が帳簿をつけていた。畑の作業人や仕事の手伝いの者が来ると、机の周りに輪になって座った。家の壁には国王陛下の写真、一族の写真、家族行事などの写真が額に入れて掲げてあった。お婆さんの部屋から出て行くと、水浴び場があり、浅い井戸をレンガで囲んであった。水を汲んで置くために楕円形の形をしていた。地下水を汲み上げるために手押しポンプがあった。近くには食堂となる四角い食卓があって、10人くらいが座れた。右手におかずの棚があり、左手には炭を使うかまどが2つあった。ご飯を炊いたり、水を沸かしたりした。それからずっと行くと家の裏に出て、色々な道具を置く部屋があった。そして、畑の作業員が寝るベッドがあった。家の隅には便所があった。他に2階には客用の寝室があった。

 この家は住居であるばかりでなく、商品倉庫、父の事務所でもあった。そして母の小さな工場でもあった。毎朝、母は4時に起きてバーンポーンから送られてくる焼蒸したサバを受け取りにでかけた。それから、タールア市場で蒸しサバ、塩魚、エビ味噌、ねぎ、ニンニクを並べて売った。帰宅するのは5時か6時であった。休憩するのかと思いきや、家の裏手で火をおこして、残ったサバを腐らないように蒸すのである。塩魚に発生するハエの蛆虫を木の刷毛できれいにしておいて、明日の朝に売ろうというのである。

 誕生後、母の乳を飲んで育ったせいかも知らないが、私は母とのつながりが非常に強い。母のそばにいるととても幸せで温かく、安らかな気分になれた。2、3歳になっても母にまとわりついていた。母の背中にすがりつき、生まれたばかりの弟と一緒になって母のおっぱいを吸い、母の脚をもてあそんで寝た。毎日、昼ごろになると、その頃16—17歳だった子守のタオ姉さんが、私と弟を連れて市場にいる母のお乳を飲ませに行くのが日課であった。塩魚や生鮮や日用雑貨や衣服、豚肉や牛肉を切るまな板を売る店、食堂、喫茶店など、来客の話し声の真只中で、母の売り場の台の上で寝るのがとても気持ちよかった。ただひとつ気にいらなかったのは、私の具合いが悪くて、鼻水を垂らしていたとき、紙か布で拭く代わりに、母は自分の手で鼻水を拭いてくれることであった。母の手は蒸しサバや塩魚で汚れていて、母は手を洗わないから生臭く、そのにおいが私の鼻に付いて、私自身が海魚の臭いに染まってしまったように感じた。さもなければ眠たい時に枕替わりに使う野菜の匂いであった。

 あの幼かった頃にもし戻れたなら、あの日の夜に戻っていけるだろうかと自問することがある。満天に月と星を散りばめたような夜、澄んだ青空いっぱいの日、そして綺麗にならんだ虹の束、身の周りには面白い童話や漫画の主人公が微笑みながら、笑い声がはじける世界。あなた方もきっと子供の頃のこのような夢の世界があったことでしょう。

 私にもありました。

 母がやさしくて、温かく、私や弟たちに愛情を開けっぴろげに表現するのに比べ、父は平然として、仕事に打ち込み、冗談も言わず、子供たちとは頭の中では微笑んでいても、ひたすらしっかりと安定した生活を維持して行こうということしか頭になかった。ともかく、私は運良く母が最初に産んでくれた長男だったので、祖父母にとっては一番下の可愛がってきた息子の子で、初孫だったので、生まれたときから私を可愛がってくれた。その頃は父は私と遊んでくれる時間はわずかながらあった。私が6歳になった頃、私はまだ幼くて、タマリンドの材木の上に座っていた父の脚を上げ下げさせて、それに馬乗りになって上がったり下りたり、ゆすったりしていた。私には玩具がなかった。当時、家はセーンチュートー通りにあって、家の前にはタマリンドの並木があった。通りを行く人には緑陰を提供していた。しかし、通りの拡幅に伴い、タマリンドの木は伐採されることになった。ルークケー村からカーンチャナブリーに向かう通りの両側に植わっていた見事なタマリンドの木は惜しくも消えてしまった。ただ家の前のタマリンドの木の切り株は、父が私と遊ぶ唯一の遊び道具だった。

 もうひとつの遊びは、父は好きだったが、私はあまり好きでなかった。父がザラザラのあごひげで顎や顔を私の顔や喉、お腹をなでるのであった。私は身体中が痒くて、痛かった。大きくなって父母の仕事を少しは手伝えるようになると、ヤギのお乳やブタの腸詰、ハトの胡椒炒めなど、なんであれ料理作りを手伝うのが好きで、よく父の手伝いをしていた。いそいそと父の傍らで手伝っては、父と囲んで食べていた。その頃は父がどこに行こうが、私はいつも“影”のようなってついて行った。父が家の前で干しておいた豆を、昼下がりにハトがついばみに来るのを、私と父は扉の後ろでこっそりと覗いて、チャンスと見るや、父は羊の角で作ったパチンコでハトを撃った。私はいつもその羽の片づけ役であった。ハトの肉の味は子供の頃から気に入っていた。神に捧げるためのニワトリをしめるのも、物心ついてからの父の助手だった。父がしてほしいことやもちろん、言われなくても私がすべきと判断すればしとしていた。

 父に関して忘れもしないことがある。その夜、父は私を自転車の後に乗せ、親類のコ・ギアム、コ・ペンヘン、父の友人2、3人とスラシット・サッタヤポンとプリーヤールンルアンが出演する“プラカノーンの女幽霊”(日本の四谷怪談のような話)という野外映画を観に行った。家からそう遠くないチャルーンポン寺院であった。映画は恐ろしく、所々で目を瞑ったり、手で目を隠したりしていた。映画が終わる頃には夜は更けて、帰宅する道はもの淋しかった。闇夜で全く明かりはなかった。道の両側から樹木が覆いかぶさっていた。小枝が垂れ下がってきて、黒々と影を落とし、しかもヒューヒューという風の音が混ざって、しかも観たばかりの映画の幽霊の生臭さが、私の肝を冷やした。私が頼りにできるは父だけだった。父は何の恐れも無くどっしりと前で自転車を踏んでいた。しかし、父の背後は真っ暗闇である。私は壁に張り付くオオトカゲのように耳も目もふさいで、父にしがみついていた。ナーガの母が乳児を抱いて夫を待ちながら、長い手を差し延ばして床下に落ちたレモンを拾いあげる場面とか、舌をだらりと垂らし目をむいて村人を騙す場面、そして周囲の雰囲気が、俗にいう“糞は引っこみ屁は失せる”[身の毛もよだつ]という類の恐ろしさを覚えた。もし父の体の中に入り込めるものなら、私は躊躇無くすぐにそうしただろう。と同時に私の心なかでは父はヒーローだった。

 父以外に私の精神に影響を与えたもう一人の人物は祖父であった。毎朝、祖父は50メートルほど離れた自分の家から、息子の家である私の家に迎えに来た。ラーン市場の入り口にあるウェーン叔母さんのクロック焼き(形がたこ焼きに似たココナッツミルクを使ったお菓子)を買いに連れて行くのであった。味は甘くて、脂濃くって、皮がパリパリとして、舌に残る美味しい味であった。それから、祖父はコ・ティムの店に立ち寄り、コーヒーを飲んだ。店には祖父と同年輩のコーヒー仲間がいつもその隣に居て、たわいない話をしていた。ただ祖父はどちらかといえばなかなかの倹約家であった。外であれこれと買うようなことはあまりなかった。祖父がバンコクにタバコの葉を売りに行ったときは別だった。子や孫に御菓子をいっぱい買って来てくれた。伯父や伯母たちが私に語るには、身体がまだ頑健なときは、祖父は仕事に熱心な人であったという。村人のために私費で橋を架け、公道を掃いても、誰にも恩着せがましくしなかった。いわば無私の奉仕だった。誰か困っている人がいれば、祖父はよく面倒を見てやっていた。金を貸してやったりしたが、返済する者はほとんどいなかった。しかし祖父は借金を帳消しにして、実際に帳簿まで燃やして、心残りにしなかった。祖父は寡黙な人で仕事一筋であった。子や孫を叱ることも無かった。子や孫の誰もが言うのは、生まれてこのかた、祖父母が怒鳴り合うとか、喧嘩するのを見たことがないという感想である。祖父が腹を立てたり不満があると、自ら家を飛びだしていた。祖母に不平を言うだけいわせて、厭きたころに帰ってくるのであった。祖父は家族の誰をも愛し、責任を担った一家の長であり、ただ誰も祖父を止めることが出来ない問題は、祖父は稼いだお金のほとんどそっくりを中国に送金することであった。祖母や子どもたちができるのは、祖父がまた中国に送金したとぼやくだけであった。

 何を思い起こしても、関係した誰もが非常に残念に思ったのは、商売で稼いだ利益を誰も利用できなかったことである。それどころか、祖父が死亡すると、子どもらの喧嘩の種になってしまった。多額の金額を送った送金屋の権利書や保証書から、その分け前を受け取ろうといがみ合った。ところが祖父がどこに権利書を保管していたのか、誰も知らなかった。数年後に祖父母の古家を取り壊して、土地をタイ国鉄に返還することになった時、祖父の古い書類箱をトゥンホーン伯父の家に持ち込んだ。伯父は祖父の二番目の息子だった。引き出しを開けてみると、そのお金がでてきた。しかし、残念なことに中国は共産主義の国家に変わっていた。祖父が持っていた莫大な貨幣はほとんど価値のない紙屑になってしまっていた。後に汕頭のプーチェンという祖父の甥という親戚に譲渡した。伯父たちが中国で勉強したときにお世話になった親戚だった。

 祖父を思い起こすと、人生の最期に病んでいた夜の闇を思い出す。とうとうバーンポーンのカミリオン病院に入院させねばならなくなった。医師は家で治療するように言った。祖父の病状が救いようのない重篤だったかもしれない。私はその時わずか3歳だった、その夜の暗さに心が震えた、とてつもなく広くて真っ暗闇だったという印象を持つ。家に帰ると、子らや親類が祖父を部屋の真ん中にある四本柱のある木製の寝台に助け合って寝かせていた。寝台の頭の辺りにはペッブリーのブワイ伯母が買ってきた緑の葡萄が架けられていた。寝台のそばには祖父に食べてもらうお湯菓子を暖める石油コンロが置いてあった。その石油コンロのにおいをいまだによく覚えている。祖父は重病なのに葡萄に手を伸ばし、ちぎってやさしい目で私に手渡してくれた。

 その夜は祖父の最期のときになった。その夜は祖父と一緒にいた。息が止まる前、祖父は私の名を呼んで、喉の奥で2言3言何かをつぶやいたが、私は関心がなかった。私は祖父が手渡してくれた葡萄のほうに気が向いていた。今でも我が家には祖父の使っていた石油コンロと長銃を祖父の思い出に持っている。子どものころを思い出は良い思い出ばかりである。
《newsclip》


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