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第4章 弟妹たち —アマタ工業団地創業者、ウィクロム・クロマディット自伝—

2011年9月28日(水) 08時06分(タイ時間)
 父母との間には10人の子がいた。タイ語で”木琴のような“という言い方をする。私の次には、妹ソムチットがいる。愛称は“インディア”といった。生まれたときにインド人の子のように肌の色が黒かったからである。ソムチットは健康に問題があり、あまり丈夫でなかった。それで私はとりわけ世話をしなければならなかった。

 3番目は男でウィトゥーン、愛称がティンである。耳飾りティンをつけていたからである。ティンは私が台湾留学中、私に代わって家の仕事を手伝っていた、言葉数が少なく、おとなしくて、品があった。責任感が強く、今はクラディットの屋敷と会社の経理を見ている。
 
 4番目は男で、ウィティトあるいはラーンといった。私が5歳のときに生まれた。母を手伝って面倒を見ることができるようになっていた。だからウィティトは私にくっついていた。私は赤ん坊のときからおむつを替え、ミルクを与えたりした。“ラーン”という愛称は、生まれた時に頭の毛がうすいので、“禿げ頭”という意味である。面白いことが好きな子で、私と一緒に出かけるのが好きだった。

 5番目は女の子でソムチャイ、愛称をデーンといった。その後、名前をウィパーウィと変えた。デーンは幼い頃から6歳になる頃まで、私が面倒を見たりしていたが、大きくなると父母が遠くの学校に入れたので、会えるのは休暇の時だけになってしまった。彼女も女の友達が居て、付き合いの良い子であった。友達が多くて、独立心が強く、気立てが良く、寛容な子だった。

 その次がウィブーンだ。小さい頃は泣き虫だった。私以外にはあまり懐かなかった。今では私のアマタ株式会社の経営を助けてくれる重要なブレーンである。

 7番目はウィワットといった。頭が良くて賢くて、何にでも熱心だった。私の仕事をあれこれ助けてくれた。責任感が強く、忍耐強く、明るくて朗らかであった。

 8番目は女の子で、ソムワンあるいはノーラーと呼んでいた。後にソムパットラーと改名した。きちんとした性格で陽気なタイプだった。よく仕事を手伝ってくれて、責任感が強かった。しかし、すこし小言が多い。

 その次がソムハタイ、愛称はニット、一番末っ子になるだろうと“おちびちゃん”という意味である。ニットは向上心が強く自信を持ち、交際上手で、コセコセしない性格で、リーダー的タイプであった。

 末っ子はウィスットと呼ぶ男の子だった。愛称は“フック”と呼んだ。漢字の“福”という意味である。英語の“Fluke”(まぐれ当り)でもある。この弟に対しては、末っ子というよりも一番上の子のような感じを持っている。気にかけて、将来のために面倒を見てやった。彼自身も責任感が強く、一般でいうところの末っ子らしくなかった。福はバンコクに戻るそぶりもなく、アメリカで暮らしている。チュラーロンコーン大学の建築学部を卒業すると、建築家として自分の好きな道を歩んでいる。

 父母と私と弟妹の住んでいたセーンチュートー通りの家には、私たちの家族ばかりでなく、家の雇い人も住んでいた。お手伝いさん、運転手、作業頭、作業人などだ。皆、家族の一員のようなものだった。誰もそれぞれ任務があって、父母に従った。しかし、家の出費は、家族の長である母がほとんど全てを賄っていた。父は新しい仕事を始めたばかりなのでお金がなかった。ケオ叔父さんやクー伯母さんは、私の父は母のところに婿入りしたようなものだと、よく言っていた。母はかつて2度結婚したことがあり、元の夫たちは若い時から母とコツコツと働いてきた人たちであった。だから母は父なんかよりはるかに金銭的に充実していた。父が金持ち美人の、いわゆる“持参金つきの若後家”の母に惚れていた最初の頃は、父は母の言うなりだった。“カラスは白いといえば、カラスは白いと応える”というような仲であった。しかし、その後は次第次第に事態が変化して、父の“地金”が出てきた。父が母の持ち金に惚れたのか、母の美貌に惚れたのか、確かでないが、タールアの村人たちは父の振る舞いが母への遠慮など全然なく、母の気持ちを踏みにじっていたと言う。

 毎日一緒に暮らし、一緒に働いている私たちの家族の慣習は皆で一緒に夕食をとることだった。子供たちも使用人も同じ食卓に座り、顔をあわせて、ご飯や魚をすこしずつ取りあって食べた。食卓が不足していたら、近くでご飯をよそって食べていた。語り合い、意見を交わし、元気かどうか声をかけあった。今日出会った出来事をみんなに聞かせてやった。温かい雰囲気を醸し出し、同じ気持ちを持つようになっていた。私自身長男としての立場で、弟や妹の食事の面倒を見てやった。それと同時に大人たちの会話から仕事のことや様々なことを耳学問で学んだ。この習慣を私は今も弟たちや一緒に仕事する人たちと食卓を共にして、意見を聞いて、交流を持続し、各人の幸不幸を知る機会にしている。この方法は雇い主と雇われ人との間隔を狭めて、一杯のご飯で親しさを増すことができる。

 毎夕、一緒に食事をする以外に、寝る時はゴロンと並んで寝ていた。私が子供の頃は、父母と弟たちと同じ蚊帳の中で寝ていた。その頃の私の任務は、夜中にお乳を欲しがる末っ子に起き上がってミルクを調合して飲ませることであった。大きくなると蚊帳を別々にして寝た。4本の紐で張った四角い空間が私や弟たちのプライベートな世界であった。とりわけ私がリーダーとなって面倒を見る世界であった。愛と安らぎと温かさと愉しい笑い声で包まれた想像の世界であった。毎晩、寝る前に弟たち、特にウィブーンは私に話をせよと、しつこく迫った。私が毎晩話した話は「伯父さんと伯母さん」など、登場人物はどこの誰というのではない、私の家のそばで商売をしている老夫婦のイェーイ爺さんと女房などといった人たちである。話の内容はその日その日の気分で思いついたことで、面白いか面白くないかは蚊帳の中の弟たちのキャッキャッという笑い声で決まった。皆は映画の銀幕に向かって座っているような感じで、私は映画の弁士のように声色を使って、面白さを演出した。聞きながら皆は眠りについた。しかし、私の任務はまだ続いた。寝る前におしっこをしたかどうかをいつも尋ねた。また私が寝るにも、弟たちがみんなそろって寝ているか、蚊帳の外に手や足を出していないか、布団をちゃんと被っているか、触って確かめては、出ている手や足を、蚊帳の中に引き込んだり、布団をかけなおしてやったりした。でなければ蚊の咬まれて赤くはれあがるからだった。そして、地図を描くなよと、身体に触って注意したのであった。その頃にしていた足や手で布団を掛ける動作を、50歳を越えた今でも鮮明に覚えている。

 私の弟たちを世話する仕方は、長男であるからというスタイルを取ったり、竹の鞭を使ったり、それでも言うこと聞かない場合は、たたいたりした。ただし、そんな場面は多くなかった。弟たちは幼い頃から大きくなるまで、私を敬愛してくれたからだった。大切なことは良い手本になろうとしたことだった。食事やその他で弟たちに、幼いからといい加減にしたり、いじめたりはしなかった。私は兄としてまっとうなことをしようと心がけてきた。自分が教えてきたことを自分でちゃんと履行しなければ、誰も信用しなくなるからだ。私も同世代の子供たちと一緒に遊びたい気持ちはあった。でもできなかった。長男としての責務が不可能にした。初めは私も抑えきれなくなったり、むしゃくしゃしたりしていたが、そのうちに慣れてしまった。大人が命令したり指示したりしなくても、自分の任務をこなしていた。私と面と向かっているときは、弟たちは遠慮もしていた。私は気がつかなかったが、私の家族以外の人たちにはそれがはっきり見えていたようだ。遠慮が恐れであったかもしれない。弟たちが私と一緒にいるときは、みんなおとなしくして行儀がよかった。それぞれは良くしゃべり、気の向くままの行動をしていた。そこで私はそれからは弟たちに出稼ぎで来ている作業員の相手をさせたり、どこか出かける時には弟たちとなるべく一緒に行かないようにした。弟たちに遠慮させないためであった。

 ソムチットあるいはインディアは生まれたときから一番時間をかけて世話をしてきた歳の近い妹である。年齢差はわずか1年あまりであるが、先天的に健康に問題を抱え、虚弱体質なので常に注射していた。ある時、薬が効きすぎたのかヒキツケを起した。当時の医者は今と違って知識が浅かった。薬の過剰摂取はすぐにインディアの脳に強く作用して、勉強に問題が生じた。物覚えが悪く、小学校を終えると進学しなかった。インディアに関して、良く憶えていることがある。まだ子供で学校に通っていたころ、昼ご飯用に、蒸し卵、塩卵、塩鹿肉、ブタの干腸詰のフライなど、おかずがあって、どの日にどんなおかずを弁当に入れるかは、寺院の弁当と同じように決まっていて、私とインディアに学校へ持たせてくれた。最初インディアが弁当の世話係であった。ところが私が少しでも遅く昼食時に着くと、インディアが全部ひとりで平らげていた。私がどれだけ腹を減らしていようと全然残ってないのである。私は腹を空かしたまま夕方まで待たねばならなかった。彼女の脳の異常を知っていたので、ただ黙っていた。その後、私はインディアに弁当を預けずに、自分で持っておくことにした。

 ラーンあるいはウィタックは兄弟の3番目である。私にとっては本格的に世話をした弟であった。私はその時5歳だった。その頃、母が足を前に出せる4輪の乳母車を買って、私が弟を乳母車に乗せて、あちこち連れて行けるようにした。弟が泣けば、母が用意した哺乳瓶を口にくわえさせた。それでもどうしようもなければ、家から200メートル離れた母の居る市場に弟を連れて行った。そこは近所のおばさんの店が並んでいた。マイ姉さんの店、野菜を売るフワイ姉さんの店、レックおばさんの店、タールア地区では有名なサムヒンじいさんの茹でたトリを売る店、サムヒンじいさんの仕事は、子どもに受け継がれてタイのトリを売るケオ店になっていた。母の塩魚を売る屋台の向かい側は、ロウソク、色蜜蝋、塗ると皮膚がスッとする白粉、乾菓子を売るウィーおばさんの店があった。弟を連れた母のところに行くと、いつも汚れた身体を洗うために、母はウィーおばさんの家の井戸を借りて身体を洗ってくれた。井戸のそばに大きな楊桃の木がすっくと立っていて、緑陰を作っていた。母の洗い方はタライに水を張り、私と弟をタライ中に入れる。水浴びがすんで、白粉を塗ってくれると、皮膚が涼しくサラッとなり、汗を吸い易くなった。

 ウィトゥーンあるいはティンは私の2番目の弟である。私はあまり世話をしなかった。歳があまり離れていないからだった。その頃、手伝いの兄さんがやってきて、私たちの世話をしていた。他の弟妹たち、例えばデーン(ウィパーウィー)はぐずることもなく手がかからなかった。ウィブーンはいつも私にくっついていた。彼をすこしでもほうっておくと、大声で泣き喚いた。ウィワットは何の問題もなかった。ソムパットラーは泣き虫でよくすねた。しかし食べるものに好き嫌いがなく、寝つきがよかった。ソムハタイはどちらかといえば泣き虫だった。末っ子の常で自分のことしか考えなかった。男の末っ子であるウィスットは私が台湾留学する1か月前に生まれた。だから、私が親しく世話しなかった唯一の弟であるが、小さい頃は誰かに会うとよく泣いていた。だからウィスットに近づく者はよく父母に叱られた。

 少し大きくなると、私の日常生活は朝早くから始まった。水浴びを終えると、母の蚊帳を開け、母を起こしてお金をもらい、市場に行って美味そうなおかずを買ってきて、料理人のルン姉さんに渡すのだった。それから家の前の戸を開け、ニワトリ篭と秤を並べる。コーヒーとメリケン粉を練って油で揚げたパートンコーを用意して母が起きてくるのを待つ。それから私たちは学校へ行く用意をする。夕方になると、弟たちを連れて鉄道線路傍とか道路際で何かを買い食いに行く。食欲が進むようにするからだった。弟たちが大きくなり学校に通うようになると、父はターマカー郡ルークケー村の公立学校に入学させた。私の役目は毎金曜日の夕方、バスに乗って弟たちを迎えに行って連れて帰ることであった。週末は兄弟姉妹がみんな揃い、小さな劇場の役者が全員登場するようなものだった。

 ウィティットは父に幼稚園から公立学校へと送りこまれた最初の弟であった。しかし彼は3回こっそり学校を抜け出して、バスで家に戻ってきていた。その度に父にたたかれた。しかし、彼は懲りなかった。私は可哀想になりながら、いつも学校へ連れ戻すのだった。彼をなだめながら、どうして逃げて帰るのか尋ねた。帰ってきても父に叩かれるし、私が連れ戻したりして、時間の無駄だからである。ウィティットは私に気兼ねしたのか、それからは学校から逃げ出すのをやめた。後で知ったことでは、学校の給食を食べるのが遅くて、友達に遅れてしまうのと、兄弟や飼い犬の“サイコー”が恋しかったからだという。私が公立学校に入学したのは5年生の時であった。朝登校して夕方下校する組であった。ウィティットは毎朝校門の前で私が登校するのを待っていた。弟に家から持ってきてほしい物があるかどうかいつも尋ねた。夕方、彼は教室の窓から乗り出して、自分から離れていって欲しくない風であった。私が帰宅してしまうと、淋しさに馴れたのか、次の朝の私の登校を待っていた。

 こうしたことは時の流れとともに消えてしまう思い出であるが、ウィティットの幼少のことは私の心にいつまでも残る思い出である。家庭をしっかりと維持するために、日夜一生懸命働く父母から離れて謦咳に接することがなくなっても、私たちの兄弟の固い絆は、侘しくなったり冷めてしまったりすることはなかった。
《newsclip》


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