RSS

第5章 思い出の中の祖父母 —アマタ工業団地創業者、ウィクロム・クロマディット自伝—

2011年9月29日(木) 22時45分(タイ時間)
 中国人の間には次の格言がある。“子供も老人も居ない家庭は健全な家庭ではない”というもので、子供も老人もどこの家庭にとっても大切なのだ。子供は咲き始めた花であり、老人は枝を大きく張って緑陰をつくりだす大木である。子供が明日の希望、夢であれば、老人は昨日の誇りである。子供が朝の光とすれば、老人は夕べのほのかな月明かりである。

 私の家族は私と弟妹たちが大から小まで連らなるようにして続いて居て、他に、父方の祖父母、母方の祖母がいて、健全な家庭であった。全員が一緒に住んでいたわけではないが、近くに住んでいて、ほとんど毎日のように行き来していた。

 祖父は物静かで、勤勉で、人柄が良く、清潔好きで、規律を重んじる穏やかな人であった。私や親兄弟の目に映った祖父の姿は、家に居る時は黒いダブダブの中国式ズボンだけをはいていて、太い革のベルトにお金や小物を入れる小さな袋をぶらさげていた。普段はパー・カーオマーと呼ぶタイ式の便利な布を腰に巻いていた。しかし、遠出する際には、純白の開襟シャツを着て、キラキラ光る絹の黒ズボンをはいて出かけた。祖父の家がまだタバコの葉を集荷する工場であった頃、祖父は朝4時に起きて、農民から買い取ったタバコの葉を大型木造船に載せて、中国に輸出するため、メークローン川を下って行った。バンコクの仲買業者に卸しに行くのに何日もかかった。帰宅する時はいつも季節の果物かクリームの入った菓子を土産に持って帰り、私や家の者に配ってくれた。祖父がいつも買ってくれた菓子が「エクレア」だということを大きくなってから知った。

 祖父の食事は質素だった。ほとんどいつも、ニンニクと唐辛子を潰したものを、畑で採れた新鮮野菜に混ぜてライムをかけていた。ご飯は折ったバナナかジャガイモ入りの混ぜご飯であった。祖父母の好物はカプラオという香料の葉とサトイモ入りの澄し汁だった。好きな飲み物はご飯を炊いたときに出てくる汁を掬いとって作った飲み物だった。祖父の午後の仕事は、市場に出かけ、ブタ肉売り場のまな板の傍らに落ちている豚の骨を拾ってきて、愛犬ウークイに与えることだった。時にはブタの内臓を醤油で煮たり、ブタの皮を煮て、小さく切って日干しにしたり、ブタ肉を一夜干しにして、揚げて食べていた。どこにも行かない時には、家の前にある竹で組み立てた縁台にすわって、中国語の新聞を読んでいた。夕方は家の前に水を撒き、道路の方までほうきで掃いて、ごみ掃除をしていた。日が落ちると、祖父母は外に出て、家の前で夕涼みし、タバコを吸ったりしていた。ときには親戚の者や友人が来て、一緒に団らんしていた。

 暑い時期は、祖父母は家の裏庭にある便所のそばのフトモモの木の下に寝台を持ち出し、蚊帳を吊って寝ていた。このフトモモの木はマンゴーの木のように、びっくりするほど大きかった。普通はピンク色でカスカスの果実なのが、赤くて味はとても甘かった。近くに掘っただけの便所があって、肥料がよく利いていたのかもしれない。祖父は紙や袋を切って、フトモモの実に被せ、竹のピンで留めていた。また、夜中に実を食べにやってくるカラスを追い払うために、風船をフトモモの木の枝にくくりつけ、紐を小枝に張り巡らしていた。そして一方の紐を蚊帳の中に引き込んで、寝ながら紐を引っ張って小枝を揺すって音をたて、カラスを驚かせるのである。祖父の家が引っ越すまで、私が庭で一緒に寝る機会があると、私がいそいそとそれをする一人であった。

 雨季には祖父母とヒエン伯父が四手網を仕掛けて魚を捕った。沢山魚がかかると、料理して食べ、残りは塩漬けにして魚醤を作った。あるとき、祖父母はケーオ、ターチーン、オクローンなど様々な種類のマンゴーを採りに、家から1キロほど離れた所にある広さ60ライ(1ライ=1600平方メートル)あるタクラムエーンと呼ぶ曾祖母の墓所まで出かけた。2人は採ったマンゴーを家の前で売り、残りは漬物にして、季節がすぎても食べられるようにした。祖父は歳をとっても、自分の畑をいつも手入れをしていた。トウモロコシ、パパイヤ、甘い野菜、苦い野菜、葉が食べられるヤエヤマアオキ、チャオムの木など、食べられる木や野菜を植えて、欠かすことがなかった。

 祖父は家中の机や椅子を始終拭いていた。家の中の物は全てきちんと片付けられていた。道具は仕分けられて置いてあった。台所に続く倉庫の棚と一緒で、棚の上に整頓して置いてあった。家の前の砂利道は塵や埃が舞い上がらないように、水を撒いていた。暑季には屋根瓦にも水を撒いていた。家の前の道路どころか、近所の道路、駅前を毎日掃除し続ける善良な市民であった。祖父の口癖は中国語で”天滞低”つまり“神様はしっかり見ておられる”というものであった。誰も見ていないから勝手なことをしてはいけない、人が見ていなくても神様はみていらっしゃるという自戒である。

 祖母は仏教の戒律を守り、菜食で、殺生を嫌っていた。私が物心ついた頃から、祖母は私を連れてよく精進料理店に行っていた。祖母は寄進して積善すれば、その功徳が子や孫を健やかに成長させてくれると信じていた。祖母は私の性格が良くなると考えていたようである。私が羊角製のパチンコをポケットに入れているのを見ると、「殺生をしてはいけないよ」とよく私に忠告した。しかし、その頃は祖母の忠告は、子供のことで右の耳から左の耳に通り抜けていた。私はかなりやんちゃで、キリギリスを戦わせたり、闘魚を戦わせたり、闘鶏に興じたり、パチンコで犬を射たり、鳥を射たり、魚を捕ったり、イモリやヤモリにいたずらしたりして、元気が良かった。祖母は注意が効き目ないと見ると、ぶつぶつと中国語で小言を言っていた。当時、祖母は果物を採ろうとして、脚立から手を伸ばしたところ落ちて腰を痛めていたので、自分ではどうしようもできないので、私が言うことを聞かないと見るや、大声で父母を呼んで、懲らしめる奥の手を使った。すると父母がいよいよ出てくる前に、私は悪さをやめた。

 しかしある時、父のお仕置きを逃れることができなかった。人生で一番厳しく父から罰を受けた。それは私が4~5歳の頃であった。ヒアン伯母の娘のイエンが祖母の寝台の上で遊ぼうと誘った。イエンはリスに洞穴を教えるかのように、お婆さんの寝台の下には100バーツ札が数枚隠してあるんだ、と言った。私はその時聞き流して、何もしなかったが、人がいなくなるのを見計らって、祖母の寝台のところに戻ってくると、こっそりと茣蓙(ござ)をめくってみた。新札の赤い100バーツ紙幣が3枚見えた。こっそりと1枚だけを抜き取った。その日、私が覚えているのは、チエンマイと刺繍された私の好きな赤い野良着を着ていた。誰かがチエンマイで買って来てくれたもので、気に入っていた。お金を盗むと私は急いでイェーオ爺さんの店へ走った。私の家から程遠くない所にあった。イェーオ爺さんはタバコの葉の工場を持っていて金持ちだった。店頭には子どもの欲しそうな色々なお菓子がガラス瓶の中に詰まっていた。私も父にお金をよくねだっていた。しかし、父が畑の作業人に支払いをしたときや、人が売りに来た農産物を買い取ったときは、小銭を持っていなかった。だから私が祖母の100バーツ札を握って小銭に両替に来ても、イェーオ爺さんは特に疑いを持たなかった。私は10バーツ札を紙箱の中に入れて、ひそかに隠しておいた。そしてアッタシントーン薬局に行って香水を買い、紙幣にしみこませて楽しんだ。自分の行為に誰も気付かないだろうと、内心得意になっていた。私はお金を持ち出してお菓子を買い食いして、一人でいい気分にひたっていた。やはり祖母の忠告した通り、罰が当たった。イエンがこのことをうすうすと知っている風なので、誰にも言うなと、口封じに少しお金を渡した。しかし金額が少なかったのかどうかは知らないが、私がお金を盗んだことをイエンは祖母に告げ口して裏切った。数分もしない間に罰が下った。父は私の手を縄でしばり、扉にぶら下げて、竹の鞭で何本折れるかわからないくらい、数えきれないほど何回も叩いた。体中が腫れ上がるほど叩かれたのは、一生のうちでもめったになかった。しばらくは父のそばに近寄れないほど、父が怖かった。それ以降、今までのような親しく近寄れる人ではなくなってしまった。

 祖母は潮州人であった。祖母の一番の楽しみは潮州戯劇を観劇することであった。毎年タールアの斎食堂で公演していた。祖母は昼間から子や孫に椅子を運ばせて、場所を確保させていた。私は祖母の観劇のお付き合いをさせられた。しかし、私は聞いても分からないし、関心もなかった。私がコックリコックリしだすと、祖母は硬貨1サルンを取り出し、私に握らせて、お菓子かアイスクリームを買いに行かせて、眠気を覚まさせようとした。私は目がパッチリ開いて、終わりまで劇を見ていた。祖母は気立てが良く、子どもたちに小銭を配ってお菓子を買わせていた。

 祖父が亡くなってからは、私が祖母と一番親しくなった。その頃、祖母は60歳くらいだったが、疾患があって歩行困難だった。父は私に世話をさせ、寝るときも一緒にさせた。私の役目は祖母が何をして欲しいか察知することであった。ご飯を持っていったり、物を取って手渡したり、便器を掃除したりなどだった。祖母は勤勉な性格で、じっとしていなかった。その性格が私に影響を与えたようだ。朝早く起きてするのは、アヒル小屋の卵を採ることだった。指をアヒルのお尻あたりに差し込んで卵があるかどうか探るのだった。なければもう卵を産んだのである。卵があれば小屋の中に入れておいて、外で生まないようにする。卵を採ると、祖母のために食事を作った。ゆで卵、ブタ肉入り卵炒め、目玉焼き、蒸し卵、甘卵などである。時には塩卵やピータンを作ったりした。ニワトリの卵はコーヒー店が買って行って、茹でてコーヒーと一緒に売っていた。祖母はよく小言をいう人であったが、汚いとか乱雑だといって、その矛先は私に向けられた。

 私は留学する15歳まで、祖母の傍で寝ていた。そして23歳で戻ってくると、頻繁に祖母を訪ねた。高齢だから、足をお湯に漬けて、血液の循環をよくしたり、電気マッサージ器で筋肉をほぐしたり、食事は噛みやすく消化し易いもの、野菜を選んであげた。

 祖母が好んで言っていた言葉がある。「怠け者は明るいところでもどのコップが欠けてけているか気がつかないが、勤勉な者は暗いところにいてもどのコップにヒビが入っているかわかる」。きっと私に、もっと勤勉になり、清潔を心がけるようになれと言いたかったのだろう。

 母方の祖母は私が親しく接したもう一人の祖母である。祖母はいかにも地方の女性といった風情だった。色は浅黒く、中肉中背、頑健で、いつもは黒か紺の腰巻を巻いて、白い半袖のシャツを着ていた。髪の毛はアカネの花型にしていた。飾りは6サルンの金の首飾りだけであった。おとなしい人で、誰を叱ることもなく、祖父とも喧嘩しないし、子どもを叩いたこともなく、いつも祖父と畑を耕していた。私は最愛の孫と言った感じで、ある時期、父母が私を1~2年であったが、祖母の許に送っていた。私は祖母にくっついてまわった。あるときは果物を採ってかごに入れるのを手伝った。熟れすぎたマンゴーや地面に落ちたマンゴーを集めて、マンゴーの練り物を作った。鍋から取り出してバナナの葉にべったりと塗り日干しにする。程よく乾くとバナナはからはがして並べる。面白くてためになる作業だった。練りマンゴーのほかに、祖母はマンゴーの漬物を作るのも好きだった。マンゴーの果肉を全部そぎ落として、マンゴーの果肉をタライに入れて洗い、塩を入れて甕に詰める。マンゴーが上がってこないように竹で編んだ蓋をして、さらに石を置く。何日かして食べたり、親類に配ったりしていた。

 祖母の家は父の家から200メートルほど離れた、鉄道線路の際の大きな畑の中にあった。家の中は付近の土とおなじ土を固めた土間になっていた。母の一番上の姉が別棟に住んでいた。祖母の家はいつも清潔で整頓されていた。父の家のように散らかっていなかった。そこで、私は伝統的なタイ式生活と中国式の生活の違いを知った。祖母や母方の親類は皆、肌の色が浅黒いか赤黒かった。食事のときは昔ながらの手で握って食べることが多かった。食事が済んで日も落ちると、皆は乾電池の箱がぶら下がった大きなラジオの前に座り、屋根の上にはアンテナが立てられていた。座ったリ寝転んだりして、番組を聴いていた。とりわけエープ・カンタターウォーン劇団やプラディット・カンチャールック劇団に人気があった。

 祖母はまた私の耳の垢を取るのが好きだった。マンゴーの木陰で祖母の膝の上で寝て、祖母に耳掻きをしてもらった。「フーッ」という吹く息とともに、「これでおしまい」というかけ声でその日の耳掃除は終わった。

 母方の祖父は私が生まれる前の1948年に亡くなった。祖父のことは母とケーオ叔母から間接的に聞いていたが、中国系タイ人で、大きくなると中国に行き、中国人の妻と4人の子供をもうけた。タイに戻ってくると、やはり中国系の祖母と一緒に住むようになった。畑仕事をはじめ、タバコの葉を栽培していた。広い土地はあるけれど、作物の売り上げから得る収入は少なかった。自分で稲作をしていなかったので、食べる米が不足することがあった。自分の畑からとれたジャガイモやサトイモを混ぜて食べていた。タイ国鉄と日本軍に畑が接収されたときも、返還されたとにきは樹木に対してわずかな補償金が出たが、土地にはなにも出なかった。

 祖父は中肉中背、均整の取れた身体で、肥えても痩せてもいなかった。いつもは人の良い人物であるが、時に激しく怒った。ときには間違いを起こした子供を叩いたりした。小言を言うが、子や孫を叱ることは少なかった。

 祖母の畑は私や弟、友達にとっては楽しい遊園地であった。果樹は木登りの遊具、マンゴー、楊桃、シャム柿、グアバ、シャカトウ、竜眼、蕃レイシ、オリーブ、フトモモなど果物は採って食べ放題である。しかも日本軍が機関車を隠しておくために掘ったトンネルがあった。トンネルの入り口にはツタ、カヅラがあった。登って下りて、緑の樹木で覆われたあたりは涼しく、午後は昼寝によかった。しかしヘビがいっぱい棲息していて、危険もあった。当時、私は5歳だったが、目の前を横切るヘビ1匹といえども油断ならなかった。とくに池では毒をもつ緑色のヘビをたくさん見かけた。他の子供なら走って逃げ去るところ、私はたたき殺していた。“予防は治療に勝る”という。咬まれる前に殺すということだろう。ヘビを叩き殺す性分は、歳をとった今も私に残っている。ヘビに出くわせば、“咬まれる”とすぐに感じるのである。私は森の中を歩くとき、とくに注意を払う。絶対にブラブラといい加減な気持ちで歩かない。こうした性分は子供の頃の体験が蓄積されたものだろう。しかし、今は殺生を嫌い、ヘビに出くわせば極力避けるようにしている。実は私はヘビ年生まれである。むしろ、お仲間として助けねばならない立場なのだ。

 祖母の家と父の家とはわずか200メートルしか離れていないのに、父が祖母の家に出入りするのを見たことがない。何故なのか知らない。母だけが頻繁に出入りしていた。後にケーオ叔母に聞いた話では、父母の結婚式の日さえも、祖母は父の家に行かなかったそうである。ただし、父の妹の伯母の家には拝礼に出かけたという。今思い出しても、とても奇異に思っている。

 もうひとり、親戚ではないが私をよく可愛がってくれたおばさんがいる。タップティップ(ルビー)女神の祠を守っているアシムおばあさんである。私の家から5軒ほど離れた長屋の小さな部屋に住んでいた。おばあさんは黒の幅広ズボンとねずみ色の中国式シャツをよく着ていた。人のよい老女だった。午後、だんだんと暑くなる頃、家ですることもなくなると、よく祠のおばあさんを訪ねた。私を慈しむような優しい視線と微笑につられて訪ねるのだった。そこで大人の心の温かさを身近に感じた。加えて、お供えに持ってきた人のお菓子を私に食べさせてくれた。今も目に浮かぶお菓子はココナツミルクの中に白と赤のモチ米の団子の入ったお菓子とか何日も供えてあったため、少し乾いてしまった串刺しにした団子である。線香の灰が混じっていたりした。しかし私のような子供は美味しくいただいた。アシムおばあさんが祠をいつも綺麗に掃き清めていたので、時には、寝台に寝るような感じで、タップティップ女神の台座の床下でぐっすり眠り込んだりした。、もう一軒の自分の家にいるようなつもりであった。

 私が家と祠を行ったり来たりしていたのは4歳くらいまでであった。それからは鉄道線路のそばの畑の中にある祖母の家に行った。その後、アシムおばあさんと祠とは疎遠になって、アシムおばあさんとは会うことはなかった。タップティップ女神の祠がメークローン川の畔に移されて、家からは200メートルほどしか離れていなかったのだが。私のような子供に優しかったアシムおばあさんの良い思い出とあの幸福感は今も想い起こすことがある。
《newsclip》


新着PR情報