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第6章 幼い頃の友達や可愛がった動物たち —アマタ工業団地創業者、ウィクロム・クロマディット自伝—

2011年10月9日(日) 21時37分(タイ時間)
 子供時代は人生のうちの黎明期のような時期である。濁って、視界不良の長い時期に入る前の、わずかな時期であるにせよ、美しく輝いて清澄である。そして、遠く過ぎ去った過去のことであるにせよ、私はあの時期のことをよく憶えている。

 私は弟や妹の世話で多くの時間を費やしたが、私にも同世代や年長の友達が何人もいた。最初の仲間は母方の親戚の子供たちであった。私はその頃まだ3歳程度で、母は年子の子を抱えて、私を母方の祖母の家によく預けていた。母は世話をしている余裕がなかったのだ。祖母の家では私以外に、私より1歳上のトーイという男の子と私より1カ月遅く生まれた同い年のポーンという女の子の孫を預かっていた。私たち3人は子供同士で、祖母の果樹園を走り回り、遊んで、食べて、寝たりした。果樹園には様々な果樹が植えてあり、緑陰を作り、果物は豊富にあった。夕方、日が落ちると家の前にゴザを敷き、家の者全員が輪になって食事をした。私は祖母の横に座るのが好きだった。祖母に焼きブタやナマズの肉を口に入れてもらっておいしく食べていた。

 5歳になると、今度は父方の祖母の家に移った。父の家からすぐ近くにあった。祖父は亡くなったばかりで、父が祖母の話相手に送り込んだのだ。そこでは今度はヒエン伯母の子供たちが新しい友達だった。私より6歳上のパイロートあるいはタイ、彼は私が台湾に留学していた頃に世話してくれた兄さんである。シエムは私より3歳上であった。イエンは私とほぼ同い年であった。私たちは父方の祖母の家で遊んだが、駅でも遊んだ。縄跳び、石投げ、バナナの幹で作った乗馬ごっこ、果物採りなど、とりわけ気に入っていたのは、輪ゴム飛ばしだったろう。腕に輪ゴムをいっぱい通したり、あるいは紐状にしたりして、沢山あればそれだけ上手ということを表し、誰も負けたくなかった。だから、ゴム飛ばしに負けても、負けを認めようとせず、喧嘩になったりした。タイとシエムにごまかされたと言っては、殴り合いをした。年齢では私が一番下だったが、誰よりも負けん気が強かったので、とうとう他の人たちにはうるさい子供と思われていたようだ。まして祖母が後ろについていたので、誰かともめると私はすぐ祖母のところに走って行って、先手を打って告げ口をした。

 祖母とヒエン伯母は暇なときにはお菓子や料理を作るのが好きだった。2人の腕前は店を開けるぐらいで、新聞などが挙げる有名な推奨店にひけを取らない。そして2人が始めると、あれを取りこれを持ってきてと言われると、いそいそとそれを手伝っていた。薪をくべたり炭を足したり、粉をこねたり、皿や茶碗を洗ったり、ごみを片付けたり、床を拭いたり、急いで必要な物を買いに走ったりした。とりわけ、お祭りのときには午前4、5時の朝早く、アヒルやニワトリをしめて神前にお供えする時の、特別な任務があった。何歳も年長のヒエン伯母の子供たちは、誰もその仕事に手を貸そうとしなかった。だから私の仕事になった。最初はヒエン伯母が起立して祈祷のことばを述べていたが、後になると私がうまく出来るようになった。私と父が仲が良かった頃、私は父の助手をしていたからだった。祖母の家は広くて、屋敷の土間にティーチューイアの祠を建ててあった。ここは私やヒエン伯母の子供たちの遊び場でもあった。家の中に祠があると、祖母とヒエン伯母は欠かさず熱心にお参りしていた。ここに捧げる供物の“始末屋”の役を引き受けることで、祖母とヒエン伯母が作った料理を、私が最初に手をつけて腹いっぱい食べる特権を持った。これで私がお菓子を作る際の株主のような立場になった。その頃、母は私にお菓子を買う小遣いをくれなかった。成長期の子供にとっては祖母とヒエン伯母のお菓子に頼らざるを得なかったのだ。

 ヒエン伯母の子供たちだけでなく、祖母の家の近所の子供たちもいた。タートー、ケームデーンあるいはチュワンが遊びに加わった。私は彼らを誘って祖母の家から100メートル離れた鹿の耳という樹木の下の広場で遊んだ。いつもの遊びをしていたが、家から離れているので、サッカーやタクロー(籐で編んだボールを落とさないように蹴るゲーム)を、チームを作って始めた。チームが大きくなるにつれ、家から離れたところへと移って行った。ときにはミ先生の庭、鉄道線路の脇で遊んだ。ソーダ水のビンの蓋を列車に轢かせてペチャンコにし、真ん中に穴を開け紐を通し、縁を刃のように鋭利にして、ノコギリの刃のように削った。遊び方は紐をグルグルと巻いて、平たい蓋がクルクルと歯車のように回るようにする。それで紐の切り合いをするのだ。時にはニワトリのオスの頭の形をした草を探してきて、草を引っ掛け合い、どちらが先に切れてしまうか闘鶏ごっこをした。

 もう少し大きくなると、近所の子供のガキ大将になった。ティンとラーンの弟2人は私の子分であった。私は父のパ・ーカーオマー布を背中につけて、その頃の子供たちのヒーローであったスーパーマンのつもりになっていた。スーパーマンになったつもりの私の乗り物はバナナの幹で作った馬だった。くつわのつもりで袋をツタでくくり付けて、両脚で馬を急かせるようにして、あちこちピョコピョコと走り回った。昔の武士がいくさで使う刀は竹の棒が代わりであった。そして疲れると馬を駆って、祖母の畑にあるトンネルへ行って休んだ。その頃、私がもうひとつ大好きだったのはコオロギを飼育することであった。探すのは祖母の家の周り、畑やタールアノーイ駅の辺りで見つけられた。羽を震わすコオロギの声を聞きつけたり、コオロギの穴を見つけると、水を流し込む。コオロギが出てこなければ、スコップで掘り出す。ところがたいていの場合、ヘビかムカデが出てきた。コオロギを捕まえると、それが暗黒色であろうと赤銅色であろうと、マッチ箱に入れて飼育した。棒の先に髪の毛をつけてくすぐり怒らせて、どれほど怒るか試してみて、気に入ったのが見つかると、友達のコオロギに挑ませる。祖母の使っていた金盥がリングである。コオロギがすむと闘魚である。当時、私の年頃はほとんど誰もが瓶に闘魚を飼っていた。しかし、せいぜい1匹か2匹程度であった。闘魚は業者から買わねばならなかったからだ。

 私の友人は歳がたつにつれ増え、最後には10人ぐらいになった。私たちが固く団結するのは、祖父母や両親の時代からの代々よく知った仲であったのと、いつ終わるとも知らぬほど遊んだからだった。しかも祖母の果樹園には様々な果物がいっぱい実った。ミ先生やシン爺さんの果樹園でもいやというほど食べ遊びまくった。

 祖母の果樹園ではマンゴーの木の上にある蜂の巣を何度も採った。マンゴーの木の下でヤシ殻を燃やし、煙で蜂の巣を燻して、巣からハチを追い出し、それから木に登り、甘い蜜の詰まった蜂の巣を採る。私自身はあまり食べずに友達に与えた。蜂の巣採りの結果は、ハチに何度も刺されて、顔や手が腫れ上がったことだ。2、3日は痛いがすぐに治るので懲りることはなかった。しかし、タケノコを採りに行ったとき、頭上にヤドリバチの巣があることに気がつかず、10匹ほどに寄ってたかって刺されて、ちょうどハンマーで殴られような、歩けなくなるほどの酷い目に遭った。頭が痛くてクラクラするのだった。ある時、暗渠のボーフラ掬いに行って、フカの口のようにパックリ開いた割れた瓶を踏んだため、大怪我をしてしまった。割れたガラスの鋭利な個所を力いっぱい踏んだために、左足に電撃的な痛みが走った。痛さでその場に倒れてしまった。真っ赤な血が傷口からどくどく出て止まりそうになかった。私は歯をくいしばって、かなり遠い家まで足をひきずりながら帰った。出血は酷かったが、医者には行かなかった。怒鳴られるのが嫌で、父母にも言わなかった。しかし、急いで傷口を洗い、自分で赤チンキを塗り、傷口が治るまで3週間以上かかった。記憶を呼び覚ますかのように、今でも左足の裏には傷跡が残っている。

 ともあれ、私たちがよく遊びに行った場所、私たちの心のふるさとは、駅の反対側のマンゴーの木の下である。その辺りは大きな樹木が緑陰を作り、よく遊び、よく眠った。近くにはヤシの木が何本もあり、私たちは木に登り、ヤシの実をひねって下に落とすのが役目だった。皆で分け合って汁を飲み、実をかじった。ときには近くのパパイヤの実を食べたりした。あるいは畑を作っている人が蒸らしている近くの波羅蜜の実やマンゴーの実を失敬したりした。また、友だちのために紐を木に括ってブランコを作ってやったりした。

 ある時、私はマンゴーの木から落ちて脚を折ってしまった。家の裏の便所の前にある部屋で添え木を着けたまま1人で1カ月以上過ごした。マンゴーの木から跳び下りたときのことを思い出すと、今でもひそかにヒヤリとする。左足のかかとで地面の上の石を激しく踏んでしまった。足のなかで充血し膿となって腫れてしまった。たまたまその頃、私はボーイスカウトに入っていて、10キロの行程を昼夜兼行で歩行して、かかとが腫れあがったことがあった。しかし誰にも小言を言わず、口に出さなかった。とうとうかかとに炎症が起こった。向かいの医院のフワン医者が心配して、かかとを切開して膿を出してくれた。後に大きな穴が残ったほどだった。毎回、医者はガーゼにアルコールを浸して傷の中を消毒してくれた。そしてペニシリンを塗りこんで、傷口を絆創膏で留めてくれた。人生でかつてなかった痛みを経験し、苦渋を味わった。恥ずかしげもなく涙を流して泣いた。肉が上がってきて傷口が閉まるまでには数カ月もかかり、一時期は脚を失った障害者のように、何もできない状態だった。

 “マンゴーの大木の下”の集まりにも、消滅する時がやってきた。ある日、私はマンゴーの木の枝に紐をくくりつけ、映画の中のターザンが象を呼ぶように声を出してぶら下がっていた。スクリーンの中から主人公が出てきたような感覚である。友達もこぞって同じようなことをして面白がっていた。近所のビーという子はさらに高い枝に紐をくくりつけ、さらに大きく紐をゆすっていた。すると紐を握る手が抜けて、下の枝に顔を打ちつけ、さらに地面に打ち付けて、鼻の骨を折ってしまった。鼻血がでて気を失ってしまった。私たちはあわてて、フワン医師の医院へ運び込んだ。この事件以降、大人から今回は赦すがもうしてはいけないと、私や友達は止められた。ついでにコオロギ捕り、蜂蜜採り、木登り、運河での水遊びは止めざるを得なくなった。ビーというあだ名は鼻の骨が折れて曲がったから“ビー(曲がった)”という名になった。

 私にとっては大きなマンゴーの木の下を通るたびに、ゆらゆらとゆれるブランコが楽しくてほころぶ笑顔と笑い声、そして紐の先から手が離れたビーが、ぼんやりと記憶の中から浮かんでくる。いささかも消えることのない思い出の日々である。

 私はタールア寺院学校(ウッサーハウィッタヤーコーン)の1年に入学した。私は小柄だったので列の後の方にいたが、うまく学校の友達をまとめることができた。様々な任務、昼休みなどには輪になって昼食を食べ、誰かが何かを持って来ていたら、分け合って食べた。この同期には、ベーン、レック、チャムノン、そしてファーが居た。ベーンは規律正しく道をはずすことはしなかった。レックは不言実行の性格だった。チャムノンはよく面白いことをしゃべり、仕草が面白かった。ファーはレックの弟で皆で世話をしていた。授業が終わると、先生は列を作って帰宅するよう指導していた。規律を保つためであった。しかし、私と4、5人はメークローン川に飛び込んで水遊びしようと列から離れて楽しんだ。すると翌朝、先生に呼び出され叱られて罰をくらった。その程度では私たちは懲りたりはしなかった。

 寺院小学校での学習は、私にはもう2つの間接的な学習効果があった。ひとつは、小学校1—4年の時は、母から日に25サターン(4分の1バーツ)を貰って学校へ行った。これでは雑炊1杯しか食べられない。5年生になったときに、やっと母は50サターンに増やしてくれた。そこで、私はウィチャイあるいはハーンフワとかワンチャイの家で昼飯をおごってもらった。酸っぱいものとか甘いものとかが欲しい時は、寺院が頼りになった。タールア寺院の本堂横には大きなサーラピーの木が聳えていた。この木の実はマプラーンの実に似ていたが、とても酸っぱかった。しかし腹が空いて我慢ならなくなると、その木に登って、木の実を採って食べた。寺院境内のほかの木の実も食べた。タマリンド、マンゴーなどがあった。木に登ることがなければ、境内で走り回って遊んだ。昼食後には休憩所で寝たり、布薩堂で寝た。静かでひんやりと涼しかった。タイの寺院だけでなく、さらに境界を越えて近くの外国の教会に入って行って、グアバを盗んだりした。

 第2の効果として、毎金曜日の午後3時に、全学の児童が寺院の本堂できちんと並んでお経を唱える行事があった。およそ半時間ほどのことであったが、経文をほとんど全て覚えて、私や友だちの小さな心に知らず知らずのうちに道徳心を植えつけていた。わたしはプラスート先生に木で叩かれたことがあった。列を作って待っている間に遊んで、お経を心を込めて唱えなかったからだった。

 水遊びといえば、命を落としそうになった事件が忘れ難い。その時、私は6、7歳であった。鉄道の駅からほど近い下市場のあたりのメークローン川に泳ぎに行くのが好きだった。商人が頻繁に商品を陸揚げする場所だった。このあたりのメークローン川は、乾季は水が澄んでいた。水位が下りて1キロほど中州が川に現れ、魚もいっぱいいた。川岸は砂になっていた。夕方日が落ちる頃は涼しい風が吹き、近所の人たちが岸で憩っていた。すると物売りがやってきて、お祭りの日のように商売していた。私は当時の子供たちと同じで、正式に泳ぎを習ったことはないが自然に覚えていた。ドボーンと水に飛び込んで、もがきながら浮き上がってくるのである。親は私や弟たちのことが相当心配だったのだろう、川で泳ぐなと禁止していた。破ったら叩かれた。だが、何の遊び道具もなく、子供は何か面白いことをしたいものである。私は両親の脅しを聞かなかったふりをして、こっそりとよく水遊びに行った。両親に叩かれないように、ポトポトと水が滴るような格好では帰らず、私と弟は道端のホコリや砂をわざと服につけて帰宅した。両親はこの秘密をよくわかっていたようだ。しかし責めることはなかった。ある日、何をしてきたのだ、目を赤くして、と首を捕まれた。私はあえてほかの話にそらそうとした。事件の起こった日、私は砂浜があるそばに沿って肩の高さの深くない場所を歩いていた。ところが思わぬところに砂の深みがあり、深みはかなりあって私の体は水底に吸い込まれていった。私はしまったと思いあわてた。あわてふためいて力いっぱい水の中でもがいた。誰か見ていてくれていないかと期待したが、期待はむなしかった。ちょうど人の往来が途切れる時間だった。誰も通らず、私の体はずるずると沈んでいき、もはやこれまでかと思った。底へ吸い込まれていくような感じで、閻魔大王が目の前に現れるのでないかと思うほど、死ぬときの感覚とはこんな感じなのだろう。しかし負けん気と今までに死ぬような経験をしたことがない私は、最後の力をふりしぼって、水中でガバッと立ち上がった。すると、水面に浮かび上がった。まだ危険は去ってないと思い、さらに力いっぱい水をかき分けた。すると次第次第に深みから抜け出していった。私は一生で初めて目の前で死を観たような思いで恐怖を覚えた。私は遂に脱出に成功した。しかし、むせるし、水を飲んで腹は膨れるし、目は赤く血走っているし喉や鼻や胸が痛かった。それからしばらくは水遊びをやめた。このことは誰にも言わなかった。後で知ったことであるが、もう少し行くと“プイ婆の渡し”に着く。この付近のメークローン川は、流れが速くなり、深みが増して、毎年、子供が水死していた。それ以来、私はひとりで水遊びに出かけないようにした。もうこりごりだった。行くときはいつも友だちと行った。

 友だち以外に、私の生活は小さい時から様々な動物とつきあいがあった。私が最初に出会った動物はシントー(ライオン)という名前の犬であった。大柄で茶色に虎のような黒い縞が入っていた。私はこの犬を通じて飼い方を知った。犬もまた私の世話の仕方を知った。私がどこに居ようと、いつもそば近くに居なければならなかった。それが最も親しい友である。犬は私の気持ちがわかり、私を見捨てない、寝食をともにする友だちであった。とりわけ深夜に水を浴びるとき、私は目をつむれなかった。家の中の闇に何者かが入ってくるのが怖かったからである。それは母が宵にお化けの話をよくしていたからだった。母がまだ娘だったころ、森の中で物を背負って歩いていると、後ろからコツコツという音がついてくるので、フッと後を振り返ると、人の首が地面に落ちていたという話をうまく語るのである。母はなぜこんな話を子供たちに宵に語るのか、私にはわからなかった。その頃、私はどの話が本当で、どの話が作り話か、幼くて見当がつかなかった。確かなことは私がお化けを怖がる性分になってしまったことである。それ以来、暗闇は友か愛犬が居なければ、わたし1人では夜を過ごせなくなっていた。母は私のような幼い子供にお化けの話を次々とするのが快感だったのだろう。どの話も面白いお化けの話だったものだから、私は本当に怖がりになってしまった。

 人生の中で命を失った経験はシントーの死だった。その日、母と私は市場から帰るところだった。シントーはついてきていた。家の前で道路を横切ろうとした時、私は先に渡り、シントーはいつも通りついてきているものと思っていた。ところがうろうろして、突進して来ようとしたとき、疾走してきた国営バスが勢いよくぶつかった。バスのブレーキの音とともに、愛犬の体は道路に強く叩きつけられた。何もできないまま、愛犬は目の前で死んだ。口や鼻から血を出し、歯は折れ口が割れた愛犬を抱え上げた。愛犬は私の腕の中でだんだん息が小さくなって途絶えてしまった。私は親友の死に泣いて悲しんだ。犬が死んでしまったのだから、母はまた探してくると言った。愛犬を失ったことは忠実な親友を失ったのと同じであった。とても残念であった。シントーのことを書いてから、2006年9月17日に日刊英字紙「バンコクポスト」を開けると、ターリニー・ウィプートさんがシントーと同じ茶色の縞の入った、生まれて2カ月の子犬の飼い主を探しているという記事があった。母犬がコンテナーに押しつぶされて死んだのだった。ちょうど50年ぶりにシントーを取り戻した感じだった。

 2匹目の犬の名は“サイコー”と呼んだ。こっけいな出来事を思い出す。サイコーは小柄であるが、私や弟たちが居れば、威張った格好をする。その頃、私は夕方になると弟や妹と一緒に森の産物を袋に詰めに出かけた。秤で計り、袋の口を縛った。仕事が楽しくなるようにドイツのグルンディック製トランジスタ・ラジオを持って行った。当時としては高価な品を母が買ってくれた。ウィーラ・リムプラペンが出演していた面白い話を聞いていた。番組が終わる時には毎回ハッハッハッという笑い声が入っていた。ラジオの番組よりおかしいのは、サムヒンお爺さんの家のディッキーというタイ種の犬とサイコーのことだった。お互いは宿敵同士で、サイコーはディッキーよりも小柄であるが、私や弟たちが応援してくれるものだから、出くわすとディッキーに吠え立てて威力を示した。サイコーのやり方を把握すると、その性格を利用した。まずディッキーをパチンコで撃ってキャンキャンといわせて退散させた。サイコーはチャンスを見て一緒になって吠え噛み付いた。ディッキーは怒ってサイコーに立ち向かってきた。最初、サイコーは主人がディッキーを撃ち続けてくれるものと思ったのか、出てきて敵に立ち向かい咬んだ。今日はサイコーが覚醒剤でも飲んだのかあるいはポパイのほうれん草でも食べたのかとの思いで、血の出たディッキーは退散していった。ところが、振り返って、けしかけていた私や弟が居ないとわかるや、サイコーは恐れて縮みあがり、尻尾を巻いて戻ってきた。こんなことが何回もあると、サイコーはディッキーに何回も咬まれた。主人がその振りだけしているのにガッカリしたのか、以来、サイコーはおとなしくなり、威張らない犬に心を入れ替えた。しかしそれでも夜の闇の中では私の恐怖心を和らげてくれる良き友であった。

 犬以外にトーンという名のニワトリがいた。大柄なニワトリだった。羽は黒がまだらに入った灰色で、いつも家の前で食べ物を探してウロウロしていた。私がお皿から落とした食べ物をついばんでいた。トーンはよく馴れたニワトリで、私は羽根を始終撫でてやった。ニワトリもいつも食べ物をくれる友だちと思ったのであろう、私が家の前に座っていると、いつも近寄ってきて私のそばに立っていた。人間とニワトリであるという相違を超えて、おたがいがよく知りあった仲という感じである。日が落ちるとニワトリは自分のねぐらに入る。生死を共にする友であった。

 トーンのほかに、近所の人が母に売ったチャボが1羽いた。たまたま私と運が合ってこっそりと飼うことになった。チャボは蹴爪が鋭く、近所の子供の闘鶏と戦った際、闘鶏の持ち主が私のチャボに蹴られて血がポタポタと落ちた。サイコーのような性格があるのかどうかは知らないが、私が水をやっていると逃げ出さなくなり、持ち主になつくタイプのニワトリであった。羽根の色は濃くテカテカとした綺麗な色で、「私は身体が小さくてもインドラ神でもブラフマ神でも怖くないぞ」といった感じで、近所の人に威力を見せつけるような甲高い澄んだ鳴き方をしていた。「ここは俺の縄張りだぞ」と皆にいわんばかりに胸を張って歩き回っていた。

 闘鶏があれば闘魚が対のようにしてあった。しかし私はそれまで闘魚を飼ったことがなかった。そこで、父から貰った羊の角のパチンコを、近所のティーちゃんの飼っているタイ闘魚1匹と交換した。毎日ボウフラを捕まえてきて、ビンにえさを入れてやる仕事が増えた。魚がえさを食べて膨れるのをじっと見ていた。ほかにも池や川で魚をすくい取ってきた。運良く金魚をつかんだこともあったが、運悪くヘビに出くわしたこともある。

 尻尾が膨らんだクラテーという種類の小さなリスを飼っていて、学校に通うカバンの中に入れた。するとクラスの女の子の関心をひいて、私は心臓がバクバクした。ほかに、オウムと九官鳥の子を畑の作業員が捕まえてきて私にくれた。私はそれを飼育しながら言葉を教え込もうとした。人間の発音を憶えてくれるかと思ったが、どんどん大きくなって数カ月後には成鳥になったが、鳥の鳴き声ばかりだった。すると、ある人が教えてくれて、言葉をしゃべれるようにするには辛い唐辛子を練りこんだブタ肉を食べさせればいいといった。私は急いで試みた。結果は翌朝、2羽とも腹を上にして天国に声を送っていた。私がかつて聞いたもっとも馬鹿ばかしい助言であった。

 それからしばらくしてもっと大きな動物、鹿に興味を抱いた。ターキレーンの農園主の一族であるチャルーン師に感銘を受けていた。チャルーン師はカーンチャナブリー県一の狩の名手だった。畑を作り、森林産物を探し集めたり、母にかわって作業員の世話をしていた。チャルーン師は品があり、穏やかな人で、昔ながらのタイ人といった風貌であった。カーンチャナブリーの虎はチャルーン師によって仕留められたのが一番多いといわれ、いまだに彼を越える猟師はいないといわれるほど、虎狩では誰も彼に敵わなかった。このように彼は名声と生業が風変わりであった。彼が母に語っていうには、ある時、虎を撃って、弾丸が尽きてしまい、手負いの虎は彼に襲いかかってきた、彼は咄嗟に竹を手にし、竹の尖った先で応戦して、ついには竹で虎を刺し殺したそうだ。私は口をポカンと開けたまま母の傍らで聞いていた。チャルーン師が語りながら演ずるしぐさに、徒手空拳で虎を仕留めた中国のソンカン物語の武宗が現代に登場したのかと思った。彼こそはカーンチャナブリーの大密林を支配する畏敬すべき王と呼ぶにふさわしい。虎はチャルーン師のにおいを嗅ぐや恐れおののくであろうし、その勇敢さに英雄として尊敬するばかりである。私が関心を持ったのは虎のことばかりでなく、チャルーン師が大きな美しい角を持つ野生の鹿を飼っていたからだった。師の「オー、オー、オー」という掛け声だけで、いとも簡単に鹿を呼び込むことができた。チャルーン師は私には霊能者のように思えて、ますます関心を深めていた。私は夢の中に居るような感じで鹿の頭を撫でたその瞬間から、その可愛らしさに鹿が急に好きになった。チャルーン師のようにいつか家で鹿を飼おうと思うようになった。チャルーン師を真似た鹿の呼び寄せ方をいまでも憶えている。

 私が大きくなると、家がバンコクに移った。ほどほどの広さを確保すると野生を含め様々な動物を飼うようになった。動物たちの種保存のための生き様、幸福、安寧を見たいのと、少年少女に野生の動物を知って欲しいからである。かれらの本来の生息地である森が人間によって破壊されて無くなろうとしているからである。
《newsclip》


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