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第7章 5歳で覚えた商売の極意  —アマタ工業団地創業者、ウィクロム・クロマディット自伝—

2011年10月16日(日) 21時20分(タイ時間)
 期待通りにうまく行くのと、ガッカリするのとは、人間にとっては具体性の両面である。われわれが心中期するところがあるとすれば、各々の期待が大きいか小さいかということになる。大きいと小さいとでは大きな違いがある。ただし、誰しも物事の全てにおいて期待通りであったり、期待に背くわけではない。とはいえ人生において最初にガッカリしたことはなかなか忘れられないものである。とりわけ、われわれが一番愛して信頼を置いていた人に裏切られた場合はことさらである。

 私の幼い頃の生活は母と一緒であった。母は私の全てであった。母が口約束してガッカリした些細なことはいくつかあったが、謝れば済むようなたいしたことでない気安さや、子供だからすぐに忘れてしまうだろうとか、本気にしないだろうといった気持ち、あるいは母の気まぐれで言ったのかも知れない。しかし、母が約束したことは全部憶えていたとは、母もきっと知らなかっただろう。いちいち言わなかったのは、母はこの次また今度と言うから、言ってもムダだと内心思っていたからだ。もし母の機嫌が悪い時であれば、また碌でもないことを言ってきて神経に触る、と怒鳴りつけられるのが関の山である。とはいっても母は私が4歳の時の中国正月までは信頼のおける人であった。

 旧正月は子供にとっては待ち遠しい日であった。ご馳走がお腹いっぱい食べられるのと、新しい服が着られて、親類が皆そろって集い、そして、欠くことが出来ないのが、お年玉の赤い袋「紅包」である。大人たちが用意しておいて、子供たちひとりひとりに配られるのである。その年はペッチャブリーに住むブワイヒエン伯母が私に特に10バーツをくれた。ほかの親戚約10人のお年玉を合わせると40バーツになった。50年前としてははした金ではなかった。なにはともあれ、私の人生にとっては初めての大金であった。私はうれしくて興奮した。ニコニコしどうしで人生のうちで一番ニコニコしていた時期だろう。しかし、すぐにお金がなくなるではないか、だれかに盗まれるのではないかという恐れと不安が生じた。私がうっかり眠ってしまった時、あるいは家に居ない時、あるいは道の途中で落としてしまわないか、生まれてこの方持ったこともない大金を手にして、失ってしまう事態を、幼いながら私の脳中は思いをめぐらせていた。自分でお金を持ちつづけるのなら、どうしたら安全に持ち続けることができるかを知るには、まだまだ子供だった。その頃、世界で一番頼りなるのは母だった。私は急いで母に40バーツのお金を預けた。美味しいお菓子を買おうと思った時、あるいは、ちょっとおもちゃを買いたくなったとき、遊びに出かける時に、母からお金を引き出せると考えた。この考えははるかな来世の極楽にある幸福と安堵感を見るような思いにした。

 私はあまりものを買ったりしない子であった。いつもは決まった額を使っていた。母が日に25サターン程度くれるので我慢していた。これでは雑炊の小さ目の1杯分しか買えなかった。母にお金を預けた時、なにか特別なものを買いたいと思った。母の許に駆け込んでいって、お金を引き出そうとした。ところが返事を聞いて私は後ろにのけぞってしまった。「毎日買い食いしているお菓子のお金は、おまえのお金じゃないのよ」母はぶっきらぼうに答えた。

 これには私も大きなショックを受けて、ものがいえなくなってしまった。ガッカリしたのと、思いもよらない事態に言葉も出なかった。目の前の世界が崩れ去るような思いがして唖然としてしまった。私が母に「預けた」お金だと念には念を入れたのに、母に一撃を喰らわされるとは思いもよらなかった。私が少しずつお金を貯めて倹約していると、母が大層褒めてくれていたのを私はしっかりと覚えていた。ところがこれは一体どうしたことか。私にとっての大金を母はどうしてパクってしまわねばならなかったのか。母は商売をしていてお金をどっさり持っているくせに。子供らの面倒を見るのは母親の務めであるのに。毎日母が手渡す25サターンのお金は、いつも私にくれているお金には間違いないが、私の40バーツは他人がくれたお金であって比べるべくもなくい。母のくれるお金とは全然性質が違うのだ。

 私は呪文にかけられたかのようにその場に立ち尽くした。私がコツコツと築きあげたささやかな極楽が、いままさに崩れて何も無くなろうとしていた。私は涙を流しながら母を見つめ、どう言ってよいのか戸惑って言葉が出てこなかった。何か喉の奥にものが引っかかったような感じで、心の奥の失望感と傷心を飲み込んだ。母は私のような4歳の子の驚きと失望の気持ちを一向に感じない様子で、土間に座り込んで仕事を続けていた。母は私の気持ちをいたく傷つけた。今までそんな金額を持ったことがなくて、やっと念願かなった子の気持ちを徹底的に傷つけたばかりか、母に対する信頼の気持ちをも壊してしまった。母への信頼感が母自身によって喪失させられたことに、私はガックリして母をもう一度見つめ、ほとんど隙間なく心に満ちた無念さと失望と苦渋を呑み込もうとした。それ以来、私は足がちぎれようが頭をもがれようが、母を絶対に信用せず、絶対にお金を預けようとしなかった。

 待ちに待った旧正月の日が再びめぐってきた。その年、私は5歳になっていた。お年玉については予め計画をたてておいた。ブワイヒエン伯母はいつものように私に一番沢山くれた。両親へ新年の挨拶に来る親類に私は水やお菓子を出して回る役目を引き受けていた。人生の中でも一番忙しくて愉しい日であった。何人もの大人の手から渡される赤いお年玉袋に入った幸せが私の手に届くのである。受け取る小さな手は震え、目は幸せで大きく輝き、欣喜雀躍する心臓はドキドキと音をたてていた。その日は、お金を多く貰ったり少ししか貰わないこともあったが、お年玉袋はカバンいっぱいに膨らんだ。幸福感がこみ上がってきた。去年母にネコババされて失望していたので、50バーツをズボンのポケットにしまった。そして寝るときもしっかりと確かめながら眠りについた。いつどこで何が起こるかわからないからだった。大金は命と同じように大事にした。翌朝になると、私は急いでバンコク商業銀行のタールア支店に行き、以前に父の許で働いていたコ・ハーンを訪ねて、預金通帳を作ってもらった。

 私は安堵と安心した気分で、濃い灰色の預金通帳をもって銀行を後にした。通帳の最初のページには私の姓名が記入されてあり、次のページには50バーツの数字が印字されていた。大きな銀行は信用できて、ごまかすようなことはないと私は信じていた。少なくとも
母がしたような失望はさせないだろうと。私が銀行通帳を作ったことは極秘にした。知っているのはコ・ハーンと私だけである。このことを母には絶対に漏らしたくなかった。母に知れたら、保護者の特権で私のお金を取り上げてしまうおそれがあるのだ。預金通帳を受け取った瞬間、私はささやかながら自分の極楽に登った気持ちであった。通帳は新しい匂いがして、確かな気持ちで撫でていた。人生にとって美しくて不思議なほど価値のあるものだった。家に帰る道すがら、私はニコニコして幸福感にひたっていた。

 タイのことわざで、「木の実が落ちるのは幹から遠くない」というのがある。商売を生業として大きくなった家族のせいか、あるいは遺伝子のせいなのか、私にも商売の才が備わっていた。子供の頃からの所有欲、忍耐力、不撓不屈の精神、苦労を厭わない精神を持っていることがわかった。その特性を現わしたのが、5歳にして“小さな店主”になったことだった。

 あの頃の宵の時間は、地方ではどちらかというと暗くて陰鬱な雰囲気があった。それは自然光しかないからだった、他にはランプやロウソクのぼんやりとした明かりしかなかった。その夜、私は祖母の家へ遊びに行っていた。印象に残る光景はヒエン伯母と子供たちが車座に座って、ランプのゆらゆらとする明かりのもとで、タンルアノーイ駅の屋台で売った炒り豆の売上金である山積みの25サターン硬貨や50サターン硬貨を、幸福そうにニコニコしながら数えているのである。金額はたいしたことはないが、主婦とその小さい子2人がコツコツと倦まず弛まず働いてきた成果であった。暗闇の中で喜びと興奮とでそこだけが明るくなった光景は、まだ5歳の私も彼らと一緒に炒り豆を売りに行きたくなるほどだった。それは、銀行にこっそり預けてあるお金の額をもっと大きく増やしたいという思いからだった。私が蓄財を夢見た初めてのことである。ともあれ小さなセールスマンとして何百というお金を稼ぐことは、私にとってはそんな難しいことではない、将来はもっと大きな極楽を現実のものにすることができる、とその夜は座ったまま思った。

 ヒエン伯母の子供たちは私より歳がすこし上で、そんなに違わないのに炒り豆を売って稼いでいるのだ。私はまだ子供だけれど、それくらいのことならできそうだ、私は金持ちになれるという不思議と自信があった。炒り豆を売って稼いだ25サターンや50サターンの銅貨の山がどんどん大きくなる夢を見て、金持ちに成れるぞ、楽しいぞ、と夢は私にエネルギーを与えた。

 ヒエン伯母の子供について歩いていて、売り方を学んだ。野外映画場での夜の上映があれば、従兄たちはどうするのか。かごを持って大声をあげて見回し、客を求めて歩き、坐って映画を見ている人の間をすり抜けて商品を届けていた。従兄たちと一緒に私も見習って心の中で大声を出し、豆を取り出す格好をして2、3周回ってみた。私だってできそうな感触を得た。ヒエン伯母に売らせて欲しいと私は胸を張って申し出た。伯母は私の真剣な目とやる気満々なのを見て、かごに5袋入れて持たせてくれた。私にとって生まれて初めての実習であった。

 祖母の家から駅前の上映場までは約200メートルあった。行くまでの間、私はヒエン伯母が値をつけた炒ったピーナッツ1袋25サターンは、5サターンが私の収入になり、5袋全部売れば、母が毎日渡してくれるこづかいと同額になる、などと計算していた。その当時、ヒエン伯母の子供らがやっている豆売りは、大したことはないし、骨の折れる仕事でもないと勝手に思い込んでいた。2、3周したことがあるからだった。ところが、上映場に入ると容易なことでないことに気づいた。映画を見に来た観客は画面に気を取られていて、「炒り豆はいかがですか、炒り豆はいかがですか」という練習した呼び声にも、いざとなると私の声は消え入りそうになり、心臓がドキドキするのと恥ずかしいのとで、画面の明かりと他の店のランプの明かりを頼りに勇気を奮い立たせても、黙ったまま2、3周回った。

 「炒り豆はいかがですか、炒り豆はいかがですか」というコ・ピアックの声は大きくなった。「炒り豆はいかがですか、炒り豆はいかがですか」というタイの声は、私の恥ずかしいという気持ちをかき消し、誰も見ていない暗闇で声は出し続けた。歩きまわって半分程度で豆を伯母に返して帰ってしまうことは、とてもできなかった。10輪トラックが狭い路地に入って一方通行しかできなくなるようのものである。勇気を出してしたことは大きな声を観衆に向かって呼びかけることだった。初めはとても恥ずかしいのと興奮をない交ぜにした気持ちで体中の血液が沸きかえったが、羞恥心は幸い暗い幕で隠された。歩きながら声をあげて2、3周すると、恥ずかしいという膿が流れ出るように、羞恥心が消えて、胸のつかえがおりた。すると成果が現れた。自転車に乗ってペチャクチャ話している若い男女が、初めて私の炒り豆を買ってくれた。私は急いで近づき、震える手で1袋を手渡し、お金を受け取った。心臓はドキドキしていた。今まで考えたこともなかったことだが、私の努力の汗で25サターンを売り上げた。本当にお金を稼いだ。正月のお年玉とは違って、私は本当に興奮して喜んだ。とても誇りに思った。わずか25サターンであったが、25サターンを手中につかんだときは、5歳の子供の人生において初めての商売であり、言葉に表わせないほどの大事業だった。私の未来を開く切り札のようなものだった。全てが始まれば、当然前へ前へと進むものだ。私は夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。空を見上げれば天空には月と星が輝いていて、気分は言葉では言い表せないほど清清しかった。

 私は物売りができる、私は物売りができる、自分自身に言い続けていた。笑いがこみ上げてきて、私の小さな心の隅々まで響き渡った。興奮と喜びを呼び起こした夜の暗闇の中で、人生で初めてのお客さんから離れると、勢いづく雰囲気の中でうれしさで飛び跳ねたい気持ちでいたが、それではかごの豆を撒き散らしてしまうおそれがあるのでやめた。

 その夜以降、毎日もうひとつの仕事が増えた。それはコルゲートパームオリーブあるいはアーラヤ製薬会社の薬を売る宣伝車を見逃さないよう見張っていることだった。宣伝車はセーンチュートー通りを走りながら、「無病息災、御仏は幸運を比類なき価値とおっしゃった。病気がないのは仏様の素晴らしい福徳なのです」という言葉で始まる宣伝文句を流しながら、次の上映映画の宣伝と主演者を拡声器で知らせて回った。映画の上映が何日の夜になるかがわかると、いつもの仕事を手際よく済ませ、2、3着しかないヒエン伯母の子のお下がりの服で身なりを整え、靴は生来の“人印”であった。憶えている限りでは、私の足は何も履いたことがなかった。暑くても寒くても、いつも自然のままであった。どこへ行くにも、それで棘や石ころを踏んできた。その足で買い出しに行くための大きなかごをひっさげ、ヒエン伯母の所へ走った。豆の袋を10袋に増やしてほしいと頼むためだった。そうすれば、いちいち戻ってきて受け取る時間の無駄を省き、お金を受け取る時間に当てたかったからだった。私は前回よりも自信を持っていた。

 映画上映場の光景は半分は事実で半分は記憶の中の想像の光景である。黄昏のタールアノーイ駅のそばの広場は、いつもは静まりかえっているが、作業員が真っ白い幕を張り、映写技師がフィルムを巻きあげ、弁士が子供の声、男の声、女の声、老人の声など拡声器でうるさいばかりに映画の呼びこみを始めた。薬品会社の社員は大きな車の前に机を置いて様々な薬品を並べて、明るく照らし出していた。男や女の商人たちが屋台の車を曳いてきた。サトウキビのしぼり汁、白イモ、茹でイモ、サトイモ、ウドン、雑炊、インドパン、豆腐汁、バター菓子、ジュース、コーヒーの屋台が並んで客を待っていた。

 当時の田舎では、夜といえば暗闇と静寂だけであった。何ひとつ楽しみはなかった。空が暗くなると人はゴザを持って座る場所を確保しだした。ある人は風と蚊から守るため毛布を持ってきた。みなの顔は夕食を済ませ水浴びをしたばかりなので、パウダーを塗って一様に清々とした顔つきをしていた。おしゃべりをしながら楽しそうだった。なかでも小さな子供たちは一番喜んでいた。あと数分で始まる映画に期待が高まっていた。私もそうした光景を見てうれしかった。観客は私にとって顧客である。私にお金を払ってくれるし、銀行通帳の数字を増やしてくれる人たちである。私はひとり座り込んで夢を描いてニッコリしていた。宵闇の涼しい駅前広場の木陰に集まってくる人々の雰囲気から顧客の匂いが伝わり、表現できない武者震いと満足感で座って待っていた。ヒエン伯母はわずか一晩で上手な売り子になった私に少なからず驚いていたことだろう。コ・ピアックやタイのように立ち止まって映画を見るようなこともなく、私はじっとしておれなくて動き回った。銀幕の映画よりも25サターン銅貨や50サターン銅貨のほうが好きなのを、伯母は気づかなかっただろう。伯母が利益の分け前を分配するときは、喜びと楽しみの絶頂であった。疲れをものともせず、興奮剤と爆薬を混ぜて飲んだように張り切って豆を売りまくる私の原動力はここにあった。

 私は一心不乱で炒り豆を売った。ほかの事に関心はなかった。楽しみは売り上げの分け前であった。銀幕上の動きにも弁士の語りにも興味はなかった。疲れも忘れて大声を出して売ってまわった。私を呼びとめてくれるときが興奮して好きだった。妙薬を塗ってくれるようなものでニッコリした。豆を売るためにいままで見ず知らずの人と受け答えし、会話をした。数日前までは売り声も出せないほどの恥ずかしがり屋の私が、信じられないほど変身していた。有名なスターが出演する映画を上映する晩は、私は50袋のピーナッツを売り上げるという記録を樹立した。豆を売り始めて間もなく、私の小さな頭脳はもっと儲けのある方法を捜し求め始めた。伯母から分け前を貰わなくてもいい方法である。事業の売上高を増やそうという5歳のタオケー(店主)になっていた。

 豆を売っていてわかったことは、広場に映画を見に来た若い男女は、市場の家族連れと違って、ゴザとか地面に敷く物を持っていなかった。若い男女はかなり遠くから自転車に乗ってやってきて、サドルに座って見ていた。あまり居心地は良くない。ペチャクチャと話もあまりできない。そこで私は男女が近くに寄れるようなことを考えた。豆を売るついでに古新聞を持ってきて座れるように売ったのである。新聞紙つきで豆を売ったのである。豆を沢山買ってくれた人には新聞紙はおまけである。豆だけを売るよりも簡単に私の売り上げを増やすことができた。新聞紙は家から持ってきたから、投資せずにその分は私の純粋の収入になった。

 ヒエン伯母の豆売りの使い走りを3年勤めた後、米穀の販売を手がける亭主がバンコクに移ると、ヒエン伯母は一緒に引っ越して行った。ちょうど夜明けの陽光が差し込む感じで、裕福への光が輝きだした。私の目前に幼い店主へのチャンスが手の届くところにあると思った。近い未来にもっと沢山のお金を稼げるに違いないと思った。だから伯母から仕事を受け継ぐのにためらいはなかった。当面の商売道具は全部揃っている。継がなければもったいないし、チャンスを逃がしてしまうのだ。私はそこで伯母に、もしバンコクに持って行かないのなら、炒り豆売りの道具を全部譲って欲しいと言った。最初、伯母は私の顔をあきれたような視線で首を振りながら見て、私が本当に伯母の仕事をテイクオーバーできるのかどうかためらっていた。そしてすぐに伯母はにっこりして、小さい時から育ててきた自分の子供のように見つめながらうなずいて口を開いた。「いいよ。持っていきなさい」。私はヒエン伯母に心から感謝して、ただちにヒエン伯母に丁寧に膝まづいて拝礼した。伯母もとても喜んで、1サターンも取らずに全部ただで私に譲ってくれた。残ったのはどのように仕事を続けていくかであった。大それた仕事をするには、私はまだ8、9歳で体が小さかった。私は誰とも組みたくなかった。自分ひとりでやりたかった。祖母だけが基本的に支持してくれた。祖母に最初だけ助けて欲しいとお願いした。祖母は私を大層可愛がってくれていた。歳が幼くても、本気で商売するのならいいことだと思っていた。祖母が間接的に支えてくれた、当時の最も若いタイでの実業家だっただろう。父が祖母の世話をヒエン伯母に代わって私に任せていたのも良い機会であった。

 炒ったピーナッツを祖母の家の前で売るため、私は囲いをして店を作った。祖母は市場で豆を買ってきて、実の詰まっているのを選んで殻を取り除き、綺麗にして用意した。それから大きな鍋に砂と塩を入れて、火が通るまで炒った。祖母が命ずると私は薪をくべた。それからふるいに入れて冷まし、砂を篩い分けた。次の手順は新聞紙で漏斗型の袋を自分で作って、それに豆を入れて、自分で作った糊で袋を閉じていく作業であった。豆の新鮮さを保ち湿らないようにと缶に入れた。

 漏斗型の紙袋を作る仕事以外に、缶の中の販売用袋の数を帳簿につける仕事があった。祖母の家の店頭で売る分を広口ガラス瓶に入れておく。夕方、学校から帰ると、祖母はその日の豆の売り上げ金を私に渡す。炒りピーナッツを用意して売るのは祖母の役目であったが、あれこれするのが祖母には楽しかった。とにかく祖母はじっとしているのが嫌いな人だった。それに私が可愛かったのだ。私から利益を得ようという気はさらさら無く、いつも私を全面的に支援してくれた。祖母は家の前での炒り豆の売り上げ金をきちんと渡してくれた。漏れることもなければ、誤魔化すこともなく、忘れたふりをすることもなかった。私にとってはかつての母よりも安心できたし気持ちがすっきりした。お金がどんどん貯まっていった。祖母がくれた四角い容器の鍵を、寝る前に蚊帳の中で開けて、25サターンや50サターンの銅貨を取り出して並べて眺めるのが楽しみだった。にっこりしてお金の上で眠り込んだ。座って1人でいると、時々自分は守銭奴のようなちょっとした精神病ではないかと考えたりした。

 ジーパンをはいた金儲けを考える子供だったので、ターボエンジンの時代に合う事業の拡大と効率をあげるもっと新しいシステムを考えねばならなかった。炒り豆を売る店を持つ小店主にはなったが、映画広場で売るのをやめたわけではなかった。逆になんとか手間をかけずに収入を増やす方法を考えた。それは商品の種類を増やすことだった。ホール印の飴、チューインガム、ねじり棒、スイカの種、トッフィーなどを増やした。しかも顧客が関心をひくような呼び方にした。「スイカの種、サモー、ホール、チューインガム、ねじり棒……」といった風である。炒り豆はもう私のメインの売り物なので、言わなくても客は知っている。移動式店舗のように大きなかごに入れた。私は紐を捜してきて首や肩にひっかけて、売り場を広く長く歩けるようにした。そして昼間は映画広場の売れ残りを祖母の家で売り場いっぱいにぶら下げて売った。商品を満載した店になり、祖母は店子であった。この時期、店主になって最も収入が多かった。1カ月に100ーツの利益をあげていた。お金はどんどん貯まっていた。数字は1000バーツにもなり、そのお金をコ・ハーンのいる銀行に預けた。行く度に預けるばかりで引き出さないのに皆は不思議に思っていた。

 2、3年後にはスイカの種が売れ筋になると、父は弟たちにスイカの種が生み出すものに興味を持たせた。ウィトーンやウィティットらが映画上映場やお寺のお祭りに持って行って売った。しかしこれは私の収入を減らすものでしかなかった。そこで私はセールスマンではなくヒエン伯母のようなパーセントを徴集する仲買人の立場にまわることにした。

 変化は常に起こった。映画上映場に人があまり来なくなった。いちいち宣伝を聞いてからやってくるのが面倒になったからだった。そのうちに「ハーシン劇場」という映画館ができた。館主は映画広場と同じように私が商品を売るのを認めてくれたが、一般の観客と同じように映画の切符を買わねば入れなかった。また家のほうの仕事が忙しくなってきた。サトウキビ畑や農産物が父ひとりの手に負えなくなっていた。私は決意して仕事を捨て、家の仕事を手伝うようになった。5歳から始めて13歳まで続けた戸外の世界で、のどかな月と星の夜のもとでの“小店主”の思い出と誇りだけが残った。

 それから2年後、私は台湾に留学することになった。炒り豆やお菓子を売ってコツコツと貯金してきた約1万バーツのお金はこれからどうなるかわからない未来に向けた人生の最初の資金となった。

 今までに誰にも言わなかったことがある。母が私の40バーツをパクッてから数年後、私は誰にもわからないように母からお金を取り戻す方法を考えた。両親は留守の間、私に店を見させた。お金をどこにしまってあるかもわかっていた。母が多くの鍵を紐に通して掛けてある鍵束を私は持ち出して、沢山の鍵から探して金庫を開けようとした。しかし鍵束の鍵をひとつひとつ試してみても開けることができなかった。開ける方法を見出すまで数カ月もかかった。人のいない時に針金を切るペンチで少しずつ鍵の先を切り落としていった。そしてある日、金庫を開けることができた。私は100バーツ紙幣、10バーツ紙幣、20バーツ紙幣、それぞれの現金の束を見た。容器には25サターン、50サターンの銅貨が入っていた。私は興奮してそれを見つめていた。頭の中は様々な思いが巡った。今日は極楽が私に味方したと思った。しかし、祖母のお金を盗んで父に叩かれた日のことを思い出した。そこで誰とも組まない、誰にも分け前を与えない、誰にも絶対に気づかれない巧妙な方法を考えねばならなかった。私は立ち上がり家の周りを見て周り、誰もいないことを確かめると、元の場所に戻ってきた。私は家の前で宿題をしたり本を読んだりというふりをして、少しずつ金庫から掠め取った。母がパクッた40バーツになると、私はやめた。そのお金は何にも使わず、銀行に預けた。

 クロマデイットの家に母がいる時、私は今までこの世で誰にも明かさなかった過ちを告白して謝った。私が初めて告白すると、母は大変驚いたようであった。すべては過ぎ去ったことである。40年以上も前のその頃に、弟たちにおごってやった300、400バーツのお金の一部であったと言った。母は私の顔を見ながら微笑んだ。しかし母がパクッたお金の10倍もの利益をあげていたことには気づいていなかった。心につかえていた事を明らかにして、気持ちを清々させたかった。今までかかって私が母に言いたかったのはこのことであった。
《newsclip》


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