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第8章 サトウキビ畑で働く  —アマタ工業団地創業者、ウィクロム・クロマディット自伝—

2012年3月11日(日) 13時36分(タイ時間)
 両親を定義する言葉を探したら、「仕事が人生、人生は仕事」という言葉以外にぴったりとする言葉はないだろう。朝早くまだ夜が明けきらぬうちから夜遅く倒れこむように寝るまで、絶えず持ち込まれる諸々の仕事に父も母も没頭していた。それが私や弟たちがヨチヨチ歩き始めた時から、両親を虜にしていた。人生と仕事が不可分であると知った。家は仕事場であり、食べる所であり、寝る所であり、遊ぶ所であったが、どこを見てもしなければならない任務があった。店のオーナーか一人株主の感じで、豆を売る店を開いて、私が母の仕事を本気で手伝いだしたのは、タールア寺小学校の4年生の時であった。放課後、友だちが楽しそうに遊んでいる頃、あるいは家に帰って夕涼みをしている頃、カーンチャナブリー県の北のほうから汽車で送られてくる森林産物を受け取りに、タールアノーイ駅で待っていなければならなかった。雨が降ろうが、日が照ろうが、月曜であろうが日曜であろうが、送られてくる荷物はどんどん増えて、日によっては100~200袋に達し、積み上げるほどあった。母とリヤカーを牽いて行って、森林産物を受け取って帰った。それから選別して、秤に掛けて10キロちょうどに仕分けて、袋に詰め、“クン発利”の印を押す。日本に輸出するためにバンコクの卸商に送りだす。

 10歳に達していない私に、父は初めて仕事を任した。それはプレーン沼、マカームポーン、ターンシアム丘、パイルアン、サムマコーからプラテンドンランへ行く20-30キロの間の畑で、サトウキビを刈り取る300人ほどの作業員をまとめることであった。サトウキビをきちんと植えているかどうか、全部刈り取ったかどうか、各畑で刈り取ったサトウキビを数える作業員を監督し、作業員を見て回ることと帳簿につけ、作業員に賃金を支払い、11月から翌年の3月までは、ターマカーにある製糖工場へサトウキビを搬入するトラックを見守ることであった。刈り取りの時期が済み、植え付けの時期になれば、種苗、肥料、弁当を作業員に送り届ける仕事があった。私自身も作業員と同じように、草抜き、掘り起こし、地下から汲み上げた水をやり、肥料撒布、サトウキビが育つと、“イーケーク”という名前の水牛や他の水牛を使って土を耕して、サトウキビの根元を固めて、寒風に耐え、倒れないようにして、重みで支える。これで1年が終わる。私にとっては、日照りが続こうが雨が降ろうが、鋭いサトウキビの葉が顔や腕を傷つけ、目を痛め、スキやクワを掴んでマメができても、休みなく働かねばならなかった。作業員の手前お手本を示さねばならなかった。私は農園主の息子であるが、誰も手を取って教えてくれる者はいない、何も特権はなかった。

 私がとても気に入っていた畑はパイルアン畑であった。家から10キロ余り離れたところにあった。畑は美しいサトウキビの緑で満ち満ちていた。棕櫚の葉っぱで葺いた小屋があって、ワートという名の作業頭が畑を管理していた。畑の一部にはバナナや果樹を植えてあって、緑陰を作っていた。さほど遠くないところにプラテンドンランの山が見え、視界の果てまで美しかった。雨が降った直後、森に向かう両側がサトウキビの林になっている畦を歩くと、雨を含んだ土が不思議にも香りを放っていた。噴き出す大地からの純粋な息吹きであり、自然の美しさであった。今の環境では出会うことが難しくなっている。夕方に水牛“イーケーク”の背中にまたがってのんびりと散歩するのが楽しかった。しかし、ある夕方のこと、いつものようにイーケークにまたがっていると、何が起こったのか、水牛は血が昇って気が狂ったように走り出した。私はその背中にしがみついていると、バナナ畑を全力で疾走していた。私は驚いたがどうしたらイーケークを止められるのかわからなかった。体を繫ぐ紐は一本だけで、つかまえ所がなく、私は空中に浮いている感じであった。何回もイーケークの背中から振り落とされそうになった。今にも振り落とされて死ぬ目に遭う、荒れる水牛の背中にまたがるカウボーイのような感じでもあり、オオトカゲが張り付くようにイーケークの背中にしがみついて我慢していた。時にはスーパーマンのように空を飛んで、今にも墜落して首を折るのではないかとビクビクしていた。フワッと空を飛んでバナナの溝に頭から突っ込んで落ちた。泥土だったのが運が良かった。イーケークはサトウキビ畑に突っ込んで行った。すんでの所に命拾いをしたのは奇跡と言うほかはなかった。パイルアン畑で何が起こったのか、私は誰にも言わなかった。

 どの畑も限りなく広く遠く私の想像力をかきたててくれる場所である。サイヨーク郡のキレン口にある畑は、森の木々の間を流れるクウェーノーイ川と200-300メートルある白い長い砂州と一方の岸には高く聳える山があり、色々な鳥が一日中鳴いていて、その前を長く続くサトウキビ畑の列は、夢を誘う雰囲気を持っていた。年中涼しく、4~5月は暑かったが、12月~1月の冬は本当に寒かった。夜にサトウキビを上げる作業員は寒さをしのぐためにマリファナを吸ってしのいでいたのを、私は覚えている。マリファナはサトウキビ畑のあちこちに植えてあった。私は世話する役目を持っていたが、一番恐ろしいのはヤブ蚊が発生して噛まれることであった。何人もの作業員をマラリアで失っていた。作業頭は菜食主義の戒律を堅持するので“マハー”(“大物”という意味)と呼んでいた。しかし、彼も長らく畑で働いているうちに、ヤブ蚊に咬まれてマラリアに罹り、顔は黄色く変色した。雨季の夜の川べりはサソリがいっぱい出てきてゾロゾロ這い回っていた。示し合わせて集まってきたように、巨大なキングコブラが出てきてニワトリやガチョウを何回も食べていたが、遂にはマハーによって散弾銃わずか一発で射止められた。

 その頃の畑に入って行く道は今のようなアスファルト舗装ではなかった。砂利道とか土道であれば、重いトラックが何回も通過したり雨が降れば、デコボコ道になり、泥の窪みができて、到着するまでに1時間以上余計にかかってしまった。両側は深い森になっていて、電気も水道も来ていなかった。せいぜい夜中に照らし出す風神の稲光ぐらいであった。場所によっては水浴びする水もなかった。かつてボーラヘーンで5日間連続で浴びる水もなく、食べ物も欠乏して、ジャガイモと米と一緒に炊いたり、おかずは辛し味噌、野菜、茹でカボチャ、茹でパパイヤ、茹でサヤエンドウを母の店の塩魚と一緒に食べることがあった。ときには飽きてそっぽを向けて逃げ出したくなったが、雇い人や村人が食べているのを見れば、私も無理して食べなければならなかった。腹ペコでは目の前の物をなんでも口に入れていかざるを得なかった。

 バイクが乗れるようになると、いつもバイクに乗って畑に行った。時には一人で、ときには父と、あるいはコ・ヒエンと一緒であった。ある日は県境を越えてスパンブリーのサトウキビ畑まで行った。父あるいはコ・ヒエンの背中にくっついて、道中コックリコックリしていた。目が覚めて夜空を見上げたときには、星が輝いていて退屈まぎれに数えてみた。

 畑の作業員の生活は赤貧洗うが如しという状況だった。各人は何の財産もなく、小屋の中にあるのは竹を割った床とゴザと枕だけであった。寒いときに体をくるむ毛布さえ持たない者もいた。夜に焚き火をするだけだった。あとは飯を炊く鍋とコンロ、2-3枚の茶椀だけだった。彼らは物は持っていないが、精神面では豊かであったと思う。彼らは精神的に交流し、お互いに見返りなしに助け合っていた。後に彼らを訪問することがあった時、服や防寒物、乾物、ビタミン剤を持って行って、一緒に働いた老人や作業員に配った。そして、彼らを救援する資金を作り、ウィトゥーンに治療費の世話をさせ、皆が毎月引き出せて、一生利用できるATMカードを渡した。

 サトウキビ畑や森に頻繁に入って行って感じるのは、神秘な現象を信じさせるスピリチュアルな力であった。その頃、私は子供から別れを告げる年齢だった。危険を冒しながら生き延びてきたという百戦錬磨の労働者に囲まれて、全員がそれぞれ霊験新たかなお守りや呪文を書き込んだ護符を持っていた。11-12歳の私もついつい信じるようになった。呪文の文句を覚え、お経を学び、呪文を刻んだお守り、護符、マハーウットとかクンペーンとかの姿を形取るお守り、金舌のムクドリ、流鉄という金属、石のオニノツノ貝、石のトリの卵など、ご利益のあるものを集めた。近所の有名な呪術師が作るまじないを探し求めた。ラートヤーに居るクメール族の血を引き、呪文の入墨で有名な新しい師に身を委ねたこともあった。首から腰にかけて、胸、肩先、頭を墨とゴマ油で入墨をした。死ぬほど痛かったが、旧暦の5月白月5日土曜日に、師はこれで教科書通り終わった、と述べた。ところが私は熱を出して数日ぐったりとなって寝込んでしまった。

 夜中に一人で畑に居る時、祈祷のために静まりかえった森に入り、霊験新たかなお守りを呼び出し、念を込めて様々な呪文を唱えた。時には鋭利なナイフを持って行って、本当にご利益があるかどうか、自分を切りつけてみた。結果はほんの少しサトイモのヤニほどしか血は出なかった。ニワトリにお守りをくくっておいて、0.357型のピストルで撃ったときは、毎回、その都度ニワトリを炊いて食べた。諦観するか頼りにするか、畏怖心を精神的に支えるためであった。加えて友人たちよりも上手であることを若者として意気がるためであった。当時は殺し合いは遊びという野性の環境があった。しかし、大きくなって台湾に留学するようになると、私はこうしたことに興味を失っていった。そうでなければ、私は近所のモン族やクメール族のように身体中入墨で青黒くなってしまっていただろう。

 サトウキビ畑の経営以外に、家では農産品を買い取る仕事をしていた。トウガラシを持ち込む人がいると、小切手を切るのは私の役目であった。トウガラシを竹篭にいれて、100メートルほど離れているコ・クーの家へ穀物運搬車に載せて売りに行く。コ・クーはこれらを集めて、バンコクの唐辛子屋に卸す。子供のころ、私は悪賢ったので、コ・クーが秤でトウガラシを計るときに、秤に足をかけて踏んで重みつけていた。商品の重量を増加するためで、しばらくこんなことをしていたら、ある時コ・クーに見つかった。彼は信じられないほど人が良く、私には一言も言わなかった。それどころか夕方に友人が座っている中で、賢くて利口だと私と母をほめてくれた。

 「あんたの息子はほんとに賢いよ。わしの秤を何回誤魔化したことか。あいつはどれほど儲けて、あんたを助けたことか」 私を見る皆の目は、逆に表現できないほど私を恥ずかしい思いにした。私は小さな村社会の中で村人から弾劾されていたようである。それ以来コ・クーを騙すのはやめた。 

 森林産物や農産物だけでなく、村人がピーナッツやカティン豆、ニワトリ、アヒルあるいは使用済みの袋まで買い取った。母はそれを買い取って私にそれをコ・ギエムの所へ穀物運搬車で運んで行かせた。彼はメークローン川の畔に住んでいて、それをまた売っていた。子供時代の私の生活は、買ってきて売って、お金を計算し、お金を受け取り商品をきれいにし、袋に詰めて、という仕事をグルグル巡っていた。文字が書け、計算ができるようになると、母を手伝って出納帳簿を付けた。私が首尾よく出来るようなると見るや、私に受け取りを書かせ、帳簿のチェックを任せた。まだ10歳のころであった。弟たちも仕事ができるようになると、両親は子供たち全員に仕事をさせて責任を持たせた。私たちの生活は“仕事”があり、生活のいつの日もいつの時間も“仕事”ばかりであった。

 私が良く食べにいった肉うどん屋はコ・ティアの店で、当時はイン伯父のパンク修理屋の隣にあった。母は子供だからとわずかしかお小遣いをくれなかったので、いつも満腹感がなかった。私はそこで50サターンのウドンを注文して、食べ終わるや昼間の混雑を利用して、お金を払わずにこっそり身を隠して出て行った。何回も同じことをしてもコ・ギアは気付かなかったようだ。さもなくれば、私を捕まえて責めるか“食い逃げ”といって罰していただろう。その頃、私はお金を銀行に預け始めていた。当時の私の性格があまりよくないのか、いつも村人からかすめ取ろうとしていた。すこし大きくなると、それが良くないとわかり、こうした性分をなくしてきた。
《newsclip》


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