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タクシン氏帰国に道筋 和解法案が週内国会審議入りか PADは30日にデモ

2012年5月28日(月) 14時23分(タイ時間)
【タイ】タクシン元首相に対する実刑判決の無効化などを含む「国家和解法案」が30日に国会審議入りする見通しとなった。野党民主党、市民団体「民主主義のための市民同盟(PAD)」といった反タクシン派陣営は一斉に反発し、PADは30日に国会議事堂近くで反対集会を開く方針を示している。

 法案は下院の国家和解検討委員会(委員長、ソンティ・ブンヤラカリン元陸軍司令官)がとりまとめ、24日に下院に提出した。

 法案の骨子は(1)2005年9月15日—2011年5月10日に起きた政治集会や政治的な意見表明による法律違反と、政府によるこれらの取り締まりに際した法律違法について、全ての刑事責任追及を中止し、すでに出た判決を無効とする(2)2006—2007年の軍事政権が設置した組織による司法案件の刑罰を無効とする(3)役員を務める政党の解党で5年間の参政権停止処分を受けた政治家全員の参政権回復——の3点。

 ソンティ元司令官は2006年9月の軍事クーデターでタクシン政権(2001—2006年)を追放し、軍事政権を樹立した人物で、軍政の命令を否定する法案を自ら提出するという皮肉な役回りとなった。ただ、ソンティ氏は反タクシン派の特権階級から命令を受けクーデターを実行し、渡されたシナリオ通りに行動しただけとみられ、2007年には軍を定年退官した。今回はクーデターの際に自らが「反王室の腐敗政治家」と呼んだタクシン氏のために一肌脱ぐ形となった。

 タクシン氏は国外滞在中の2008年、首相在任中に当時の妻が国有地を競売で購入したことで懲役2年の実刑判決を受け、その後は投獄を避けるため、タイに帰国せず、主にドバイに滞在している。2010年2月には一族の資産約470億バーツが不正蓄財として国庫に没収され、これをきっかけに、3—5月のタクシン派市民によるバンコク都心部の占拠、死者91人、負傷者1400人以上を出した治安部隊との衝突に発展した。タクシン氏への実刑判決と資産没収はいずれも軍政が設置した組織による調査の結果で、和解法が施行されれば、(2)により、無罪放免、資産返還となる見通しだ。(1)に関しては、不敬罪も対象になる可能性があり、その場合、不敬罪で逮捕、投獄されたタクシン派市民が出獄することになる。

 和解法案に対し、野党民主党は「和解ではなく、タクシン氏に利するだけ」「司法制度の破壊」(アピシット党首・前首相)と反対の立場を明確にしている。

 PADは26日、バンコク都内のルムピニ公園で反タクシン派テレビ番組の公開収録を行い、集まった反タクシン派市民数百人の前に、PAD創設者で実業家のソンティ・リムトーンクーン氏が久しぶりに姿を見せた。ソンティ氏は和解法案に断固反対する姿勢を強調し、「今回が最後だ。負けたら死ぬ」と、支持者に反対運動への参加を呼びかけた。PADは法案審議が始まるとみられる30日にバンコクのアナンタサマーコム宮殿前で反対集会を開き、その後、国会議事堂までデモ行進する予定だ。

 タクシン派が下院の過半数を抑えていることから、反タクシン派は国会で和解法案の成立を阻む手段がない。阻止するには、憲法裁判所が法案内容を違憲とする判断を下すか、大規模な街頭デモで法案撤回に追い込むかしかない。そうした意味で、30日のPAD集会にどの程度の人数が集まるかに、法案の運命は大きく左右される見通しだ。

 タクシン派与党プアタイは同法案への対応を明確にしていない。「和解」と銘打ったものの、内容はタクシン氏への有罪判決を洗い流し、帰国への道筋をつけるもので、国会で採決を強行すれば、軍、世論の反発を招きかねない。ソンティ元司令官に法案提出を任せたのもこうした懸念からとみられ、世論、軍、反タクシン派の動向をみて対応するとみられる。

 タクシン派と反タクシン派の対立は当初、新興財閥と特権階級の権力闘争とみられたが、紛争が長引く中、民主化勢力と特権階級の対立に深化したという見方がある。タクシン派は2006年のクーデターと同派解党を命じた2008年の司法判断で、2度、政権を追われたが、総選挙では2001年、2005年、2007年、2011年と4連勝中。反タクシン派は軍事クーデター、裁判、街頭デモなどで対抗し、不安定な政局が続いている。

〈民主主義のための市民同盟(PAD)〉
 タクシン政権(2001—2006年)当時の2005年に中国系2世のタイ人実業家ソンティ氏が設立。タクシン氏の王室への不敬、汚職疑惑などを追及し、2006年に数万人規模の街頭デモをバンコクで連続開催、政治機能を麻ひさせ、同年9月の軍事クーデターによるタクシン政権追放を呼び込んだ。
 2007年末の総選挙でタクシン派が政権に復帰したことから活動を再開し、2008年8月から同年12月まで首相官邸にあたるタイ首相府を数千人で占拠。11月下旬からバンコクの2空港も占拠し、タイの空路交通を遮断した。空港占拠中の12月に憲法裁判所がタクシン派与党を解党、反タクシン派の民主党を中心とするアピシット政権が発足したことから活動を停止した。
 2011年になり、カンボジアとの国境紛争への対応などを口実にアピシット政権への対立姿勢を明確にし、同年1月下旬からタイ首相府前で座り込みの反政府デモを開始。2008年同様、クーデターによる政権打倒を支持するなど、一部特権階級の代弁者的な主張を行った。同年7月の総選挙では投票ボイコットを呼びかけた。2011年8月にタクシン派インラク政権が発足してからは目立った動きを見せていなかったが、2012年1月に集会を開き、ソンティ氏がタイ軍に対し、クーデターで権力を完全掌握するよう呼びかけた。
 PADはタクシン氏の権力拡大や民主主義の浸透を危ぐした特権階級の影響下にあるとみられる。タイ王室の支持を受けていると主張し、シンボルカラーはプミポン国王の誕生日の色である黄色。2008年10月にPADのデモ隊が国会議事堂周辺で警官隊と衝突し、支持者の女性が死亡した際には、シリキット王妃が葬儀を主宰した。
《newsclip》


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